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カテゴリ:saudade-memoria( 81 )

父の想い出

来月、父親の33回忌を迎える。父が亡くなってから随分と永い年月が経過した。そうした年月のこともあり、この頃、父との想い出がよく頭の中に甦る。先月、父親との想い出をテーマとした短編小説らしきものを2篇書き著してもみた。

わたしには様々な父との想い出があるが、最も幼少の頃、はっきり記憶に残っていることは、お菓子屋の白い紙袋の想い出である。わたしの実家の近くにはお菓子屋があった。わたしはよく利用したが、当時はお煎餅やお菓子は、ガラスのビンのようなものに入っていて、その中のお菓子を取り出し、薄く白い紙袋に包んでくれた。

その白い紙袋を、お菓子が食べ終わると空気を入れ膨らませ、風船のようにしてから、力一杯手で割ると、大きな音がでる。わたしはこの紙袋割りの音に妙に興味を持ち、父に紙袋だけを買ってほしいとねだったのである。

今から思うと馬鹿なおねだりだったと思うが、あまりにもしつこくせがむものだから、父親は確か500円か1000円か忘れたが、お菓子屋に行って、このお金で100枚紙袋を買ってこい、と言ってくれた。わたしは早速お菓子屋のおじさんにお菓子なしで紙袋だけをほしいとせがみ、おじさんも紙袋だけ100枚売ってくれたのである。

その袋を持ち帰り、わたしはすぐに100枚の紙袋を立て続けに膨らませては割りを繰り返し、100枚すべて割ってしまった。そしてようやく、その楽しみ(イタズラ)から卒業することができたのである。それ以後、そうしたことは一切やらなくなった。それで気持ちが落ち着いたのだろう。

父親は、わたしがやりたい、ということを躊躇なくやらせてくれた人だった。孫のように歳が離れていたこともあるだろうが、わたしはこれがしたい、というと協力は惜しまなかった。今から思うと、そうした父に感謝しなければならない。なぜなら、母親はその真逆で、すべてを禁止する人であったからである。

by kurarc | 2019-09-20 23:35 | saudade-memoria

四谷駅 吹き抜け空間とアールズコート駅


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四谷駅の中に新宿通り下になると思うが、巨大な吹き抜けがあり、その上部に向かってエスカレーターが伸びる空間がある。

この空間を体験するとき、いつも頭の中に思い出されるのは、ロンドンのアールズコート駅である。初めて行ったロンドンで、この駅の近くに宿を借り、ロンドンの観光に向かった。その14年後に再びロンドンに行った時にも、アールズコートに宿をとったこともあり、思い出深い駅である。アールズコート駅も同様の吹き抜け空間があり、四谷駅のこのエスカレーターを登っていく時、ふと頭の中をよぎっていく。

東京の駅内空間は、貧しいものが多い。階段やエスカレーターは単に上下の移動のためだけで、そこを通過するとき、どのような空間を体験できるのかまで考えられていないのである。

その中でも、四谷駅のような吹き抜けは魅力的である。駅舎やホームの空間をデザインする時には、こうした通過動線の空間までデザインしてほしいものである。

by kurarc | 2019-09-16 01:15 | saudade-memoria

千駄ヶ谷

千駄ヶ谷の従兄弟の家を訪ねた。以前にも書いたが、従兄弟は幼少の頃、アメリカ生活で脳に障害をもった。現在、60歳にもなるが、まったく会話ができない。動物と同じである。今日は従兄弟の好物の葡萄やアイスクリームをもって様子を見に行ってきた。

千駄ヶ谷は国立競技場や東京体育館、将棋会館などがあるが、賑わった商店街もなく、休日に訪れても人通りはまばらで、東京の中の真空地帯のような感じの街である。従兄弟の家は鳩森八幡神社の近くにあるが、初めて境内の中を拝観する。能舞台もあり落ち着いた神社で、9月14日、15日は例大祭日となっている。

従兄弟が美味しそうに葡萄を食べている姿を見て安心したが、いつも会うと胸が痛くなる。もっと医学、あるいはリハビリが日本で進んでいたなら、会話することができたのではないか、と思う。ポーランド映画『幸せのありか』を観て、そう思った。病気になったのはある程度言語を習得してからなので、我々の言っていることは少しは理解していると思われるのだが、自分で言葉を発することができないのだ。

しかし、ヘルパーの方に様子を伺うと、たまに歌を歌うようなことがあるというし、単語を発することもあるという。わたしは彼が幼少の頃、大好物の「ベーコン」という言葉を発したことしか記憶にはない。

以前、わたしの祖父母ほか親戚の墓がある鎌倉明月院の住職から、彼が我々家族の苦しみを引き受けてくれている、と教えられたが、そうなのかもしれない。しかし、わたしの家族も苦労は絶えなかった。彼がいなかったら、もっと苦しい生活が続いていたのかもしれない。わたしにできることは、こうしてたまに顔を見に行ってやることくらいである。



by kurarc | 2019-08-31 18:06 | saudade-memoria

忘れえぬ都市(まち)

国木田独歩の『忘れえぬ人々』という短編が好きである。独歩の忘れえぬ人というのは、親子、朋友知己、教師先輩など「忘れてかなうまじき人」ではない。アノニマスな人のことである。自分にとって取るに足りない人、いわば偶然巡り会い、通り過ぎていった人、すぐに別れてしまったような人でも、「忘れえぬ」ことがあるというのである。

わたしはそれと同じような経験を都市(まち)にも感じる。都市の名前も鮮明に思い出せないが、記憶の奥底に残っている都市がある。そうした都市はあるふとしたことで頭の中に蘇ってくる。パリやロンドン、ローマのような都市ではそうした想起はあまりおこらない。(こうした都市は常に鮮明に記憶に残っている)しかし、無名に近い都市に訪れ、何年かした後、そうした「忘れえぬ」経験がおこるのである。「忘れえぬ都市」とは必ずしも美しい都市ではない。

わたしは最近、そうした経験を詩に近い短編小説にまとめてみた。そうした都市の経験は、例えば、映画の舞台で使われる都市にも言える。例えば、映画『道』の中に登場する都市や街路の風景の中に「忘れえぬ」感覚をもよおすし、アントニオーニの映画に登場する都市にもよく感じる。

実は、そうした「忘れえぬ」都市というものが、もっともわたしにとって大切な都市なのではないか、と最近感じるのである。それはどういうことかというと、パリやローマに感動するのは、いわば能動的に感動しているのではなく、様々な情報を得ることから制度としての感動、受動的な感動なのではないか、つまり、一期一会の感動ではないのではないか、ということである。

人と巡り合う事も同様ではないか。会うべくして会った人より、何かの巡り合わせで偶然会ったような人ほど、忘れられない気がするのである。逆説的にいうと、半分忘れてしまっているような経験の中に重要なものが隠されている、と言えるのではないかということである。

*わたしにとって忘れえぬ都市(海外)のリスト抄
・リスボン(ポルトガル)のアノニマスな街路
・ギマランエシュ(ポルトガル)
・サンタレン(ポルトガル)
・エルバス(ポルトガル)
・アングラ・ド・エロイズモ(ポルトガル・アソーレス諸島)
・ブルージュ(ベルギー)
・ベルン(スイス)
・トリエステ(イタリア)
・オルヴィエート(イタリア)
・ブザンソン(フランス)
・メリダ(スペイン)
・オラン(アルジェリア)
・コンスタンチーヌ(アルジェリア)
・ブルサ(トルコ)
・シラーズ(イラン)
・マンドゥ(インド)
・台北(台湾)
・ジョクジャカルタ(インドネシア)
その他、名前も思い出せないような小さな都市

by kurarc | 2019-08-22 00:28 | saudade-memoria

三鷹市立第3中学校

今日、某大手企業の営業の方が事務所にやってきた。その方はわたしの中学の後輩だということがわかった。中学校とは三鷹市立第3中学校である。

わたしが学校というものの経験の中で最も楽しかったのは小学校から中学校時代であった。公立小中学は試験を受験して入学してくる訳ではない。将来、東大に入る連中から、卒業して職人になるような連中まで様々な子どもたちの集まりである。中学では教師を殴る学生がいるかと思えば、暴力教師もいた。学校は社会の縮図であった。

3中の特徴は、音楽が盛んだったことだろう。生徒の1/3がコーラス部という珍しい中学で、朝、授業の前に自主的に発声練習や歌を歌う時間があった。現在はコーラスが衰退し、吹奏楽に力をいれているそうである。

中学校の隣は東京女子短期大学があり、以前にも書いたが、松の生い茂る斜面にそって教室がならび、音楽室から女子大生の授業風景が望めた。今から思うと、良好な環境であったが、今ではその多くが住宅地に変貌してしまった。

仕事の打ち合わせの途中に中学時代の教師のことを話し込んでしまった。わたしの記憶の中にある教師たちのほとんどはこの世にはいないと思われる。何かを教えてもらったようにも思うし、何を学んだのかわからないとも思える。教師だった方々には申し訳ないが、今になって最も尊いと思われるのは、一緒に学んだ同級生、同窓生とのふれあいだろうか・・・

by kurarc | 2019-07-25 22:44 | saudade-memoria

沖縄 再び

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沖縄の建築家山田正永さんよりパイナップルが届いた。その御礼の手紙を書いた。

手紙にも書いたが、わたしは大学卒業後、なぜ沖縄に行ったのか、今となってはよくわからないのである。建築家末吉栄三さんの仕事を新建築で知ったことがその大きな動機だったが、普通であれば、東京の人間が、沖縄まで行くだろうか?

さらに、沖縄へ行ったのもつかの間、その3ヶ月後には約1年をかけた海外旅行に出かけることになる。この旅で見学したものを未だに消化しきれていない。それはあまりにも膨大な時間であったからである。この旅でポルトガルに行ったことが、この旅の13年後、ポルトガルに暮らすことにつながった。一つの行動はもう一つの行動をすでに含んでいた。

つまり、一つの行動がすべてを含んでいたのかもしれないのである。それは大学卒業後の2年間、この沖縄での経験と、約1年にわたる海外旅行であったといまでは思う。ここで得たもの、また、学習し、学習し損なったものがわたしの原点である。わたしは未だにその空白を埋めることができていない。沖縄での経験の中にすべてがある、といってよいのかもしれない。今回の旅でもそのことを強く感じられた。建築だけでなく、都市や都市をとりまく自然へ耳を傾けること、東京では忘れがちであるが、沖縄へ行くといつもそのことを思い出す。

このような大切な場所があることはわたしにとっての宝である。沖縄を忘れないようにしなければ。

*写真:中村家シーサー横顔

by kurarc | 2019-06-25 21:18 | saudade-memoria

30年前

T事件から30年が経過したという。未だに真実は明らかにされていないというが、テレビのドキュメンタリー番組で、おおまかではあるが詳細が明らかにされている。SNSもなく、携帯電話もスマホもない時代であったこともあり、市民の間でも情報は限られている。わたしと同世代の若者たちが何百人も殺された事件であった。

1989年、わたしはちょうど大学院に入学した年であった。その2年ほど前に父親が死去していた。父は歳をとっていたからわたしは普通の子供より早く父親を亡くすだろうとは思っていたが、予想外にそれは早く訪れた。父の死のせいか、なにかもう一度建築を学習し直さなければという漠然とした考えが浮かび、3月入試を行っていた大学(当時は2大学しかなかった)を選び、大学院に入学した。

先日、久しぶりに沖縄を訪れたが、T事件を振り返るとき、いつもこの沖縄での悲劇、沖縄戦について著された大田昌秀氏の著書を思わずにはいられない。沖縄在住時に購入した大田昌秀著の『沖縄戦とは何か』の最後に、大田は「軍隊は、民衆を守るものではない」という結論を述べて終わる。T事件とはまさに、その結論を証明したような事件であった。1989年は、今思えば21世紀がはじまった年であったのかもしれない。



by kurarc | 2019-06-09 21:56 | saudade-memoria

代官山今昔 都市の品格とは


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久しぶりに代官山を訪れた。代官山は20歳の頃、ある設計事務所がヒルサイドテラス内にあり、アルバイトに通った街である。その頃代官山には同潤会アパートがあった。傾斜地を利用した同潤会アパートは敷地になじみ、すばらしい住環境を形成していた。アパート内には銭湯があり、また、誰もが利用できる食堂もあり、わたしはたまに利用した。おばさんが窓口にいて、定食を頼むと、勝手にソースをかけてくれる。余計なことをするな、と当時は思っていたが、今では懐かしい想い出である。

その当時と比べると、代官山は商業施設が増え、超高層建築も建設され、随分と様変わりしてしまった。ヒルサイドテラス周辺がかろうじて当時の記憶を残しているが、わたしからみると、随分と品格のない都市に変化してしまったな、と思う。

最近、自分でもよく使う言葉に「品格」がある。人としても品格をもっていたいし、ものにも品格がある。都市にも建築にも品格がある。言葉にも食事の仕方にも品格が現れる。すべての面で品格を失いたくないと思いながら生活をしている。それは難しいことだが、わたしの目標でもある。

都市にも品格をもってほしい。建築に携わるものであれば誰もそう思うだろう。しかし残念ながら、品格を感じる都市は少ない。特に東京都内ではなかなか経験できない。品を感じるのは地方の都市の方が多い気がする。わたしの中で同潤会がある当時の代官山がそうであったが、今は昔のことになってしまった。

*上写真:ヒルサイドテラス。この奥に見える緑を過ぎた地下にアルバイト先の事務所があった。

*下写真:ヒルサイドテラスと蔦屋との境界。このあたりは、ヒルサイドテラスとの連続がよく意識され、外構がデザインされている。こうした連続がすべての領域に広がっていければよかったのだが・・・

*それでは、品格を感じる都市とは何か?それは都市がきれいか汚いかでもないし、お金をかけることでもない。都市に「筋が通っている」こと、と言ったらよいだろうか。2月に訪れた新潟の高田にはそうした筋を感じた。建築の単なる集合ではなくて、建築によってその場所固有の都市がつくられている、と感じられる都市、それが品格のある都市である。

by kurarc | 2019-04-15 22:32 | saudade-memoria

千倉へ

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45年ぶりに千葉県の千倉を訪ねた。御墓参りをずっと失礼していた親戚があり、それを果たすことともう一つ、父とわたしの二人で旅行に出かけた最初で最後の場所が千倉であったからである。

今年はちょうど父が他界して30年が過ぎたこともあり、父と二人で出かけた千倉の海を見たいと思った。千倉には従姉妹のご主人の実家が海のすぐ近くにあり、我々はそこにお邪魔して、海水浴を楽しんだのである。1泊2日程度の小旅行であったと思う。

父親となぜ二人で出かけたのか、なぜ母が付いてこなかったのか今では思い出せないが、わたしにとっては想い出深い小旅行であった。この小旅行時、わたしは確か小学5年生の夏であったと思うが、すでに父は還暦近く。海で泳いでいる父が波にさらわれるのを見て、不安を覚えたことを今でもよく記憶している。

父と泳いだ海は、港の中の防波堤でプールのように囲われた場所であったとずっと記憶していたが、わたしの記憶違いであったのか、現在の姿は港の一端の浅瀬であったようだ(あるいは、囲ってあった一端が壊されたのか?)。その場所を写真(上写真)に収めてきた。この場所を車で通り過ぎようとした瞬間に、ここだ、とすぐに記憶が蘇ってきたから不思議である。防波堤で切り取られた場所から望む海の風景をよく記憶していたのである。

この辺りの海の風景は、わたしが滞在したポルトガルのポルト周辺の海を思い出させた。ポルトガルの建築家シザ・ヴィエイラの傑作、レーサのプールがあるあたりである。この作品が好きなのも、この千倉の岩場の多い海との関連なのかもしれない。

45年も経ったのだから、父と泳いだ海の風景は様変わりしていると思っていたが、ほとんど変わっていなかったのには驚いた。千葉は昭和の風景がよく残っている。館山から借りたレンタカーはかなり予定より早く着き、時間も余ったので、帰りは房総半島を海沿いに館山まで戻る。小春日和の天気の中、久しぶりに雄大な水平線を眺めながらのドライブは楽しめた。

帰る途中、館山城下で安房一豆(いちず)という枝豆のペーストを使用したずんだ団子(東北地方でいう"ずんだ餅"の団子バージョン)をいただく。この団子は美味。お薦めである。

by kurarc | 2017-11-02 23:44 | saudade-memoria

心の中の破片を拾い集めること

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わたしのような歳になると、確実に死ぬまで時間より、生きてきた時間の方が圧倒的に長いため、過去の出来事、経験、記憶が頭の中に蘇ることが多くなった。

最初の海外旅行を終えた25歳くらいの時、フランス語を勉強しようと思った。ル・コルビュジェに興味を持ったからである。しかし、帰国後仕事やら、途中から入り直した大学院でドイツ語をやるようになり、すっかり忘れてしまった。大学院を出る頃には、ポーランド語を始める始末であった。それが今、30年の月日が経ち、フランス語を学ぶようになった。若い時の中途半端な経験は、破片のような断片として心の中に散らかっていて、それらをもう一度拾い集めて、もう少し綺麗なかたちにしておきたいと思うようになった。

多くの海外旅行を経験しながら、その膨大な経験を未だに大きく実らせていないことは腹立たしいが、あまりにも大きな経験をし過ぎてしまったのだから仕方がない。それらを少しずつでも目に見えるかたちにしたいのである。

昨日もプラハの建築に関する新書を古本屋で購入してきた。プラハに行ったのは、まだチェコスロバキアと言われていた頃のことであり、その暗い街の雰囲気が忘れられない。カレル橋を渡り、カフカの住んでいた旧市街を彷徨った。旅した時の魂のようなものは未だに生きていて、ふとわたしを目覚めさせる。『プラハを歩く』(岩波新書、田中充子著)といったタイトルが目に入ってくるや、30年以上前の記憶が蘇ってきたのである。きっとわたしは20代に旅した国や経験のことを死ぬまでこだわり続けていくのだと思う。


by kurarc | 2017-06-23 22:19 | saudade-memoria