沖縄からのメール

5月末から6月にかけて訪ねた沖縄の末吉栄三計画研究室の末吉礁君からメールが届いた。お父様を亡くされた後、仕事がとれたetc.との内容である。

沖縄の特に学校建築で実績を残した末吉栄三さんの後を継いで、新たな出発を始めたという知らせである。沖縄からメールが届くというのも感慨深い。メールというのも捨てたものではない、よいツールだなと思う。沖縄を訪れ2ヶ月以上が過ぎたが、改めて沖縄という場所、世界を大切にしなければとつくづく思う。

礁君からメールをもらった時、わたしが沖縄に旅立った時の光景が思い出された。自宅のすぐ近くのバス停からリックを背負って、バスに乗り、ふと後ろを振り向くと、バス通り沿いに両親が並んで立ち、わたしを見送っていた光景である。両親が並んで立つという光景をその後、わたしは一度も見ていない。多分、その時が最初で最後である。沖縄での仕事をやめ、東京に戻ってからすぐに父も他界してしまったからである。

沖縄に何か貢献できることはないか、遅ればせながら今、そう思っている。年末には末吉栄三さんの回顧展が開催されるかもしれない、と聞いている。多分、また今年、沖縄を訪れることになりそうである。

by kurarc | 2019-08-09 22:46 | 沖縄ーOkinawa

『沖縄骨語り 人類学が迫る沖縄人のルーツ』 土肥直美著

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5月末から6月初めに沖縄に久しぶりに訪れたときに、琉球新報社でタイトルの本を購入した。骨からみる形質人類学の著書で、沖縄人、はては日本人、アジア人の起源のようなものに迫る著書である。

以前、このブログで『骨が語る日本史』(鈴木尚著)の中に描かれている、鎌倉の人骨について書いたことがある。骨に刻まれた傷によってその人に死に方までわかるようなことや、人食という習慣があったことなどについてふれた。

沖縄人や日本人(やまとんちゅう)のルーツは何かといった議論は古くからなされてきたが、この本で興味深かったのは、最新の発掘調査によると、沖縄人が縄文人の形質を多く残すということはどうも俗説らしい、ということである。

「日本列島人の二重構造モデル」という考えでは、200万年前から南方系縄文人が分布し、日本の基層となり、その後、2500年前頃から北方系(渡来人)が入り、この二系統が重なり合うという二重構造と考えられた。沖縄とアイヌの周辺地域はその後、混血が少なかったことから、縄文人の彫りの深い形質を多く残している、と言う考えが有力だったが、この考えは現在、再考が求められているということ。

沖縄人の人骨を調べていくと、以外にも彫りの深い顔ばかりが発掘されるのではなく、浅いものも多く発掘されるということである。そして、その変わり目は、どうも沖縄でグスク時代といわれる12世紀以降に日本側(東から)からの交流がさかんに行われたことが影響していると考えられるらしい。ただ、グスク時代の人骨は未だに数多く発見できていないこともあり、今後、この時代の研究が重要になってくるということである。

わたしも最近、遺伝子解析を行ってみたが、わたしの祖先は一体どこからやってきたのかという興味はつきない。わたしが沖縄に住むようになり、台湾を経てタイに行くという初めての海外旅行の経験は、実はわたしの祖先が来た道を逆行しているのでは、と思えてならないのだが、この著書を読み、その思いは益々強くなった。

この著書では、沖縄に残る様々な墓の形式にもふれていて、興味深い。特に東京のような都市の中で「死」は遠い世界であるが、沖縄ではまだ、都市の中においても「死」が身近な世界として感じられる風土が残っているということである。

by kurarc | 2019-07-23 19:36 | 沖縄ーOkinawa

沖縄 再び

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沖縄の建築家山田正永さんよりパイナップルが届いた。その御礼の手紙を書いた。

手紙にも書いたが、わたしは大学卒業後、なぜ沖縄に行ったのか、今となってはよくわからないのである。建築家末吉栄三さんの仕事を新建築で知ったことがその大きな動機だったが、普通であれば、東京の人間が、沖縄まで行くだろうか?

さらに、沖縄へ行ったのもつかの間、その3ヶ月後には約1年をかけた海外旅行に出かけることになる。この旅で見学したものを未だに消化しきれていない。それはあまりにも膨大な時間であったからである。この旅でポルトガルに行ったことが、この旅の13年後、ポルトガルに暮らすことにつながった。一つの行動はもう一つの行動をすでに含んでいた。

つまり、一つの行動がすべてを含んでいたのかもしれないのである。それは大学卒業後の2年間、この沖縄での経験と、約1年にわたる海外旅行であったといまでは思う。ここで得たもの、また、学習し、学習し損なったものがわたしの原点である。わたしは未だにその空白を埋めることができていない。沖縄での経験の中にすべてがある、といってよいのかもしれない。今回の旅でもそのことを強く感じられた。建築だけでなく、都市や都市をとりまく自然へ耳を傾けること、東京では忘れがちであるが、沖縄へ行くといつもそのことを思い出す。

このような大切な場所があることはわたしにとっての宝である。沖縄を忘れないようにしなければ。

*写真:中村家シーサー横顔

by kurarc | 2019-06-25 21:18 | 沖縄ーOkinawa

蝶と食草

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沖縄の学校を数多く見学してきたが、沖縄では蝶のオオゴマダラ(上)の食草であるホウライカガミ(下)を学校の生け垣に植え、この蝶を保護していることが流行っているという。

このような流行は沖縄だけでなく、全国の学校でも流行らせてほしいものである。わたしが知らないだけで、他の日本の学校の生け垣には、昆虫の食草を植えることを積極的に行っているところも数多くあるのだろう。

興味深いことは、ホウライカガミは毒があって、それをオオゴマダラが食べることで、オオゴマダラは毒を蓄え、自らの個体を外敵から保護しているらしいこと。これは人間にもいえることなのだろう。

オオゴマダラの蛹(さなぎ 下))は黄金色に輝いているという。

*22年前、あるいは24年前だったと思うが、斎場御嶽に行った帰りに蝶の大群に遭遇したことがあった。これはきっとオオゴマダラであったに違いない。

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by kurarc | 2019-06-03 14:03 | 沖縄ーOkinawa

沖縄 原点への旅

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22年ぶりに沖縄を訪ねた。1984年から85年にかけて沖縄で働いていたときお世話になった建築家末吉栄三さんが亡くなられ、そのお墓参りを兼ねて、5日間滞在した。梅雨の時期ではあったが、幸い建築を見学中に雨に降られることもなく、傘を使うことはなかった。

那覇市内中心部の変貌ぶりには驚かされ、モノレールにも初めて乗った。都市部は物質的には本土並みに整えられ、東京と変わらないが、相変わらず時間の流れ方は穏やかである。

今回は末吉さんの仕事を中心に見学し、また、いつも沖縄でお世話になる建築家の山田正永さんの仕事も見学させていただく。その他、北部大宜味村まで車を走らせ、過去に訪ねた集落や建築を含め見学してきた。

末吉さん、山田さんの仕事は小学校、中学校、幼稚園など学校建築が多く、それぞれ見学先で沖縄の子供たちにもふれ、その人なつっこさ、明るさに元気をもらってきた。那覇市内の学校は末吉さんをはじめとする建築家たちの努力もあり、東京の学校建築にはみることができない豊かな空間づくりに成功している。

いつもながら末吉さんの事務所の先輩や、今回は末吉さんの息子さん、末吉礁君とも多くの時間を過ごすことができ、沖縄について多くを教えていただき、充実した滞在となった。わたしの方は東京での生活に追われ、沖縄についての学習を怠っていたことに改めて気づかされた。

沖縄はわたしが社会に出て初めて過ごした場所。これからもこの場所を大切にし、もう少し頻繁に訪れることができるようにしたい。

*写真は那覇市前島の「ふみや」という料理屋。わたしが沖縄で働き始めた初日に末吉さんに連れてきていただき、「ジューシー」と「イナムドゥチ」をご馳走になった。この味が忘れられず、沖縄を訪れるときにはいつも立ち寄る。今回も初日と最終日に立ち寄った。35年前と変わらない味と店構え。次に訪ねられるのはいつだろう。


by kurarc | 2019-06-02 09:46 | 沖縄ーOkinawa

原点を忘れずに 沖縄 具志堅邸

わたしが大学を卒業して働き始めたのは沖縄であった。当時、那覇市西にあった末吉栄三さんという沖縄の建築家の事務所で働き始めた。

最初の仕事は、具志堅さんという方の離れの解体工事とその施工であった。設計事務所なのになぜ解体工事をやらなければならなかったのか、それは事務所の事情があった。これといった仕事がなかったこともあり、解体工事から設計施工まで引き受けたのである。

わたしの初めての仕事は設計ではなく、解体工事となった。コンクリートブロック造であった平家をハンマーで解体していくのである。このとき、コンクリートの硬さを嫌というほど思い知らされた。3時の休憩時間には、具志堅さんのお母様(おばあ)が人の拳より一回り大きいトマトを出してくれた。このトマトが美味しくてたまらなかった。

この仕事は、基礎の配筋工事を手伝った後、わたしは世界旅行に旅立つことになった。帰国してから、今度は具志堅さんの母屋の改築工事を携わることになる。沖縄の住宅では、作り付けの仏壇が設置されるが、その設計もやり、図面を手書きで仕上げた。こうした仕事がわたしの建築活動の原点である。どんな仕事にも携わること、設計者、建築家という立場であっても、できることはなんでもやる、それがわたしのスタンスである。

建築家は世間的にはカッコのよい職業と思われているが、その実態は正反対である。現場へ行けば、職人たちをどなるヤクザのような存在、紳士的な職業とは正反対だ。その一方で、知的レベルを向上させることにも意欲を燃やす。建築家は、幅の広い階層の中間的存在、その境界線上に位置する職業といってよい。肉体労働者であり、知識人。そのどちらでもない。

年の初めには原点を思い出すことは励みになる。原点の記憶はまったく色褪せないから不思議である。



by kurarc | 2018-01-02 10:35 | 沖縄ーOkinawa

末吉栄三さんからの電話

今朝、沖縄の建築家、末吉栄三さんから電話をいただく。

ブラジルや北アメリカ旅行を終え、帰国されたようだ。「出会い」という言葉を使うときに思い出すのは、いつも末吉栄三さんとの「出会い」である。

沖縄に何の知り合いもないにもかかわらず、大学を卒業して働くことになったのも末吉さんとの出会いによる。1年にも渡る旅をすることになるのも、末吉さんの勧めがあったからである。今、あの旅と同じことをしろ、と言われてもできないだろう。

その旅はメリットだけではなかった。若いときには人が行ったこともないような国に行っていることもあり、有頂天になることもあった。行った国についてどれだけのことを知っているのか、未だにあやふやだ。そうしたこともあり、20代後半から旅した国を少しずつトレースしはじめた。

北欧やイラン、インド、ブラジルなどは未だに勉強不足である。それは今後の課題だが、新しい国に行くこともまた大きな課題だ。

by kurarc | 2012-07-20 10:49 | 沖縄ーOkinawa

沖縄の建築家 末吉栄三さんから

久しぶりに沖縄に電話をかけた。大学を卒業して初めて就職した沖縄の建築家、末吉栄三さんのところである。末吉さんの元気な声をお聞きすることができ安心した。電話で、一般社団法人環境共生住宅推進協議会のHPに文章が掲載されているので、読んでみるように言われた。

その文章のひとつは、ブルーノ・タウト設計(マルティン・ヴァーグネル協働)によるブリッツのジードルンク(集団住宅)についてであった。この文章は世界遺産になる前に書かれたようだが、文章の最後に世界遺産になるのではと締めくくっていて、本当に世界遺産になったので驚いた、と末吉さんは話されていた。私もこの建築をベルリンで見学したのが1984年。その5年後に大学院に入り、タウトについて修士論文を書くことになったが、この優れた建築を是非見学するように薦めてくれたのは末吉栄三さんであった。

タウトは日本では桂離宮を評価した建築家という紹介のされ方ばかりであるが、日本に来る前にはドイツにおいてラディカルな仕事をこなした大建築家であった。またタウトはいち早く、モダニズムの建築家の中にあってバナキュラーな建築の価値を発見した建築家の一人であった。彼の色彩を多用した建築は、リトアニアのカウナスという都市の建築から影響を受けているということも意外と知られていないと思われる。

末吉栄三さんの文章、仕事については、以下の項目をクリックして下さい。
*以下のデータは削除されてしまったようです。(2011/06/16)

タウトのブリッツ・ジードルンク
カール・マルクス・ホーフ
円形土楼-客家の小宇宙
荘厳された水の場所-インドのステップウェル
新都心那覇市営住宅 設計 末吉栄三計画研究室

by kurarc | 2009-07-14 17:28 | 沖縄ーOkinawa