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"Rivetage" プロジェクト

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今年から2020年にかけて"Rivetage"(リベタージュ)プロジェクトを開始しようと思っている。東京(一部東京以外)に残存するリベット留めが使われた鉄の構築物を撮影するプロジェクトである。

リベットが使われた建造物で最も知られているのはエッフェル塔であろう。東京では東京タワーだろうか。すでにこの技術を使って鉄骨造の建物をつくることは行われなくなったが、この技術を使った建造物は橋桁や鉄道駅舎など都市の中を歩いていると目にする建造物に見られ、19世紀から20世紀の日本の建築技術の残照といえる。

単純には、フランス語の男性名詞”Rivet"(リベット)と現されるが、"Rivetage"の方がその技術の行為自体を象徴できるような語感があり、"Rivetage"と名付けることにした。

現在、鉄骨を留めつけるのはボルトに変化したが、リベットはボルト以前の鉄と鉄を結びつける技術であった。高温に熱せられた鋲(リベット)を職人たちが一つ一つ鉄を接合するためにかしめていく。そうした技術、職人技はすでに忘れ去られたが、その残存物が都市の中に何も覆われることなく露呈している。その生々しい残存物を写真に残しておこうと思っている。

今日は午前中、30年ぶりくらいになると思うが、東京タワーの柱脚を見学に行ってきた。久しぶりに東京タワーを訪れたが、この構築物は未だに未完の塔、仮設性の強い構造物であると感じられた。多分、エッフェル塔のような芸術性、デザイン性がみじんも感じられないからだと思う。ただただ、高い鉄の塔をいかに建設するのか、それだけを目指して建てられたという必死さだけが感じられた。1950年代後半の建設技術、建築状況を表現した構造物であるといえるだろう。

こうした構造物を写真技術の勉強も兼ねて白黒写真で収めていこうと思っている。

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by kurarc | 2019-01-03 15:15 | archi-works

新国立競技場

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昨日、障害をもつ従兄にクリスマスプレゼントを渡した帰りに、新国立競技場の状況を見にいった。従兄の家のすぐ近くなので、立ち寄ったのである。

この建築の評判は、建築家たちからは何気なく聞いていた。あまりよい仕事ではない、と言う評判である。建築を設計しているものなら見ればすぐわかる。競技場の軒にあたるデザインだけ見ても、この建築の詰めの甘さが露呈しているのである。

軒を木材のタテ格子のデザインで埋めているが、その木材のピッチが開きすぎていて、緊張感がないのである。そのピッチと鉄骨の柱との取り合いも不自然であった。

設計者はこのようなずさんな建築をつくるような人でないと思うが、この建築に限ってどうしたことだろう?設計に時間をかけられなかったのだろうか?あるいは、模型での検討が不十分であったのだろうか?

とにかく、ただただ大きいなぁ、と関心(感心でなく)しただけであった。

*千駄ヶ谷駅前、槇文彦氏設計の津田ホールが解体され、なくなっていたのには驚いた。

by kurarc | 2018-12-25 23:21 | archi-works

京都、奈良への旅

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久しぶりに連休を利用して京都、奈良の一泊旅行を楽しんだ。京都では竜安寺石庭、仁和寺を、奈良では東大寺、唐招提寺、薬師寺、奈良まちなど巡る。今回はそれに加え、恩師と20年ぶりに再会することも目的であった。恩師の住まいの近くにある大和文華館(吉田五十八設計)も見学した。

久しぶりの古刹見学は感動の連続であった。また、東大寺の南大門など改めて観ると、その屋根の架構の軽々しさに驚いた。古代建築(南大門は中世か)とは重々しいものだという先入観が吹き飛ばされる思いであった。また、東大寺大仏殿内にあった、焼失以前の重源による大仏殿の模型を発見できたことは収穫であった。現在の大仏殿よりも重源の設計した大仏殿の方が構造的に明快で、現代人の目からみると優れているように思われた。


唐招提寺に訪れたのも何年ぶりだろうか、全く記憶にないほどであったが、やはり金堂の勇ましい架構はいつ観てもよい。京都、奈良は観るものすべてが絵になる、それが驚きであった。もう少し冷静になってからまた、今回の旅について振り返ることとしよう。

*恩師からは、日本美術に関する造詣が深いことから、いろいろと解説をいただく。わたしは全く日本美術について無知であるため、恥ずかしくなる。お会いするたびに多くを教えていただく、わたしにとって貴重な師である。ラスキンの翻訳が近いうちに出版されるという。

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by kurarc | 2018-11-26 00:16 | archi-works

建築士会全国大会 さいたま大会 空き家まちづくりセッション参加

今日は、第61回建築士会全国大会さいたま大会に参加。会場の大宮ソニックシティビルへ朝から向かう。大宮はレディオヘッドのコンサートへ行って以来となるから、10年ぶりくらいになる。

わたしが参加したのは、「空き家まちづくりセッション」。結論から言うと、非常に有意義なセッションであった。驚いたのは、徳島県や山形県での空き家対策に関する活動の先進性である。山形県鶴岡市ではすでにNPO法人も設立され、都市レベルでの空き家対策が始動しはじめているということである。

また、徳島では空き家判定士という資格が知事の肝いりで制定され、現在90名が登録されているという。空き家判定講習に使われるテキストも士会のメンバーが独自に作成したという。

空き家問題は少子高齢社会が進行する中で、大きな課題の一つになっているが、地域差があり、統一した方策に還元できない難しさがある。同じ東京都でも、空き家が深刻な市、区とそうでないところがある。それぞれの地域で独自の方策、展開が必要となる。

しかし、こうした組織がつくられたのはよいが、空き家対策はなかなか進まないということである。それぞれ個別に相続や権利関係が入り組んでいる場合が多く、問題が複雑であることがその大きな要因らしい。わたしの住む自治体でも空き家対策が行政主導で組織化される動きがある。建築家だけでなく、弁護士、宅建士、不動産業者、コンサルタントなど様々な職種との連携が空き家対策のカギとなる。

by kurarc | 2018-10-26 20:39 | archi-works

2級建築士 製図講師へ

某学校の2級建築士製図講師を務めることが決まった。今年の夏は忙しくなりそうである。

わたしは大学が美大ということもあり、1級建築士の受験資格を得るためには、まず2級に合格しなければならなかった。2級建築士合格はまず一つの大きな山であった。2級建築士を受験することなしに1級を受験できる工学部の卒業生をうらやましいと思ったが、現在ではそうは思っていない。すべての建築士は2級から受験すべきとまで思っている。

わたしの仕事は2級建築士が設計監理できる規模をぬけでていないのが現実なので、1級建築士の資格がなくても困ることはない。1級建築士はいわばステータスで、使用しないがもっていて当たり前という世界、それが建築士の世界である。大手の設計事務所でも勤務しない限り、1級を必要とはしない。宝の持ち腐れなのである。

その点、2級建築士は基本的に木造製図が必須(3年に一度、鉄筋コンクリート造になる)であり、設計事務所を営むものにとってもっとも身近な課題が提出される。また、相変わらず手書きの図面が要求される。このPCの時代に手書きを試されるとはいかがなものか、という議論も当然あるかもしれない。近い将来、CADによる試験が行われるようになるかもしれないが、手を使って描くことの大切さを学ぶ場として、2級建築士の製図は、CADが当たり前となった時代、ある意味で大変貴重な経験となる。

iPadにもPencilを使うように、どのようにITが進化しても、手でなんらかの発想をすることは、人間である限り、なくなることはない。手とPCの両刀づかい、二つの自由で柔軟な使い手こそ求められているといってよい。試験に合格するというだけでなく、その大きな目標の過程として2級建築士製図をとらえてほしいと思っているが、受験生にそこまでの余裕はないのも現実だろう。

by kurarc | 2018-05-13 11:31 | archi-works

龍安寺石庭の謎

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わたしはよくある典型的な日本庭園を好まない。自然を模した人工の局地と言えるような日本庭園は生理的に受け付けない。しかし、そうした庭園とは異なる手法の庭園が日本には存在する。例えば、龍安寺石庭(いわゆる枯山水)である。砂と石、それに石に付着したわずかな苔のみによって、主に庭園がかたちづくられている。その背景には、菜種油を混ぜた土による強固な油土塀が続く。自然は借景として取り込まれている。

この石庭は、いまだに誰が作庭したのか、石にはどのような意味があり、その配置はどのように決定されたのか、といった様々な疑問が未解決のまま放置されている。その難問に、多くの学者が説を繰り広げている。ある学者は、この石の配置がカシオペア座を投影したものだという。また、ある学者は西洋的手法や黄金分割を読み取るものもいる。

果たしてどの説が真実に近いのか、わたしにはわからないが、この石庭が多義的であり、人によって多くの想像を呼び覚ます力を持っていることに敬服する。15の石は実は14であり、一つは崩れた末に15に見えるようになったとも言われており、石の数ですら、確定できない有様なのである。

最近、わたしはこの石庭に特に興味を持つようになった。この石庭は多分、中学の修学旅行時以来訪ねたことはないが、謎の多い庭であるが故に興味をそそられる。先にも述べたように、この庭が、擬似的な自然を模していないことも惹かれる。それは、心の中を模しているようでもあり、哲学的でもある。

こうした古典であれば、わたしは是非その謎解きをしてみたいと思う。まだ、参照している文献はわずかだが、まずは、近いうちにこの庭を訪れ、その魅力を堪能してみたいと思っている。


by kurarc | 2017-12-13 18:10 | archi-works

放送大学プログラム 『世界文学への招待』

放送大学をテレビで見ることはほとんどなかったが、偶然、講義の副題が気にかかり見るようになったものに、『世界文学への招待』という講義がある。

この講義がよいのは、世界各国へ講師が出かけ、現地の文学者へインタビューをし、同時代の作家の思考、思想を紹介していることである。また、訪れる国々も幅広く、わたしがはじめに見たのはマルチニック島を訪ねた講義であり、パトリック・シャモワゾー(『クレオールとは何か』の共著者の一人)のインタビューを聞くことができた。

その後、パレスチナ、パリからプラハへと広がり、その講義の内容自体もそれぞれ興味深い。パリでは、作家を支えた2軒の書店を取り上げ、ヘミングウェイやジョイス、ベンヤミンらの媒介者としての書店の役割を考察した。また、プラハでは、カフカとポスト・カフカの作家であるフラバルやアイヴァスといった作家のインタビューから、プラハの街の言語(民族、眼差し)の複数性を浮かび上がらせた。(カフカの小説には”固有名詞がほとんどでてこない”という指摘は、プラハという都市の複数性(多様性)から理解できる。つまり、特定の場所、民族、言語の優位性を避けたというカフカの意図であった?)

文学者の語る言葉が、不思議と文学から都市や世界、あるいは哲学を考える言葉を包含するものであるため、わたしのような専門外のものが聞いていても、示唆に富む言葉、表現が多い。また、彼らの言葉が、実は遠く離れた東京に住む人間にとって、状況は異なるが、日々大都市の中での経験とつながっていることを感じるのである。

放送大学の講義も、選択次第で大きな糧になる。

by kurarc | 2017-12-03 15:16 | archi-works

1級建築士定期講習会終了

3年に1度の1級建築士定期講習会を受講してきた。この拷問のような講習会にはいつも閉口する。建築士事務所を営む限り、建築士(建築家)は死ぬまでこの講習を受講しなければならないのである。なぜ3年に1回なのかも合理的な理由はないはずである。3年に1回は認めるとしても、なぜ1万円以上の講習料なのかも不明だ。我々意匠を担当するものはこれだけでよいが、構造設計1級建築士、設備設計1級建築士の方々は、この講習に加えて、専門の講習も受講しなければならない。

講習会の最後の1時間に行う修了考査もあまり意味はない。それより、講習会時間を1時間増やしてくれた方がよい。朝10時から夕方5時頃までの講義は、あまりにも内容が大すぎるために、ほとんど棒読みに近い講義が続く。なぜ、これだけの内容をすべてにわたり網羅しなければならないかもまったくわからない。ご年配の方は、修了考査のマークシートの仕方もわからず、質問をしている有様だ。わたしはまだ40代後半から始まったからよいが、今の若い建築士、建築家たちは、20代から受講しなければならないのである。これは悲劇といってよい。

本来であるならば現場で実地講習などを行うべきなのだが、何十万という建築士がいる状況では不可能である。どうせならば身になる講習会を望みたいが、それは望んでも無理な注文というところか。せめて、受講料を現在の半分の5,000円程度にすべきと思うが、それも無理な注文だろうか。現在の受講料であるならば、テキストをもっと充実したものにすべきである。このテキストに1万円以上を払うことはとても納得がいかないのだが・・・

by kurarc | 2017-11-29 23:32 | archi-works

古典研究から

大学時代、古典研究という講義があった。例えば、ルドルフ・ウィットカウアーのミケランジェロの論文(英文原書)を読む、といった講義だったが、新しい分野だけでなく、過去に目を向けて、その中に同時代性を読むことと、今この時としての同時代を批判的にみる眼差しを養うことが目的であったと思う。

最近、自分で古典研究を意識的に行なっている。日本の古典、特に江戸以前の世界に興味が湧いてきた。それは、専門の建築だけでなく、少し前にふれた近松門左衛門の人形浄瑠璃(文楽)であるとか源氏物語といった文学の古典、古代の夢の世界であるとか(『古代人と夢』西郷信綱著)、遊民、漂流民の世界(瞽女、道の人など)等々。日本の漂流民からは、ユダヤ人についての興味へ、また、カリブ海流域のクレオール文化への興味へとつながっていっている。建築では、現在、龍安寺石庭や法隆寺夢殿など、「もの」としての捉え直しではなく、文化としての捉え直しに興味を持っている。

こうした分野へなぜ興味を持つのか。それは頭の中の認識を流動させること、固定した歴史観を疑うためである。例えば、『古代人と夢』(西郷信綱著)からは、古代において「夢」とは、ある特権階級の者にとっては個人を超え、祭式的なものであったこと。夢託を乞い、公的な性格をもつものであったことなどを知ると、今まで「夢」という言葉から想像していた世界は一気に崩れ去り、また新たな世界が見えてくるという新鮮な認識を獲得できる。(この著書のあとがきで市村弘正氏が言及しているように、西郷氏の認識は、ベンヤミンにもつながっていく)

こうした自己認識の揺さぶりを行う時期というものは、それぞれある年代の中で行われていくものだろうが、ちょうどわたしの場合は、この50代後半という年齢が適齢期を迎え始めたということなのかもしれない。今はそうした様々な分野での発見がおもしろくて仕方がないような状況である。この歳になって遅ればせながら「学ぶ」ということがやっとできるようになった、ということなのかもしれない。

by kurarc | 2017-11-21 01:04 | archi-works

六条院 光源氏の住まい

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日本の文学が気になり始めたこともあり、まずは源氏物語まで遡らなくてはと、入門書などを眺めていると、光源氏の住まい(架空の住まい)、六条院の復元模型(上写真)が掲載されていて、その空間の雄大さに驚かされた。

あくまで復元なので、真実の姿(紫式部が思い描いていた姿)とは言えないが、源氏物語の内容から、この寝殿造りは四季、すなわち春夏秋冬をコンセプトとしていて、それぞれ東西南北に敷地を4分割し、建築物を配置している。

3つの寝殿造りと冬をテーマとした(西北の町)だけは対屋が並んだ形である。春(東南の町)と秋(西南の町)をコンセプトとした寝殿造りが前面に、夏(東北の町)と冬(西北の町)をコンセプトとした建築はその裏側にそれぞれ配置されている。4つの建築物は廊で連結され、回遊できる。池の形は不定形ではなく、四角形であった可能性もあるとのこと。

それにしても、四季をテーマとして四つの建築物を配置するという考えは、現在でも斬新である。現代であれば、一つの建築の中に四季を埋蔵させるようなテーマも可能だろう。できれば住宅という形式の中で、こうした考えが実現できれば興味深いプランになりそうな気がするが、それはロマン主義に片寄りすぎる考えかもしれない。

*冬(西北の町)をテーマとした町だけ対屋(寝殿造りでない)なのは、他の町の夫人より身分の低い明石の御方の住まいであるから、ということらしい。
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by kurarc | 2017-10-03 22:50 | archi-works