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『屋根の上のバイリンガル』 沼野充義著

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ポーランドに興味をもつようになったため、ロシア、ポーランド文学の研究者として著名な沼野氏の著書に接する機会が増えてきた。タイトルの『屋根の上のバイリンガル』は、沼野氏の言語にまつわるエッセイといった体裁だが、内容は軽快な口調で書かれていて、いたって興味深い。

前回のブログでふれたリトアニア語について、このエッセイでもその内容にふれていて、リトアニア語の中に、多くの古代インド語の言葉を残していることが書かれていた。ロマンス諸語なども含め、インド・ヨーロッパ語族などと言われるが、ピンとくることのない方が大半ではないか。リトアニア語を知れば、そのいわれがよくわかるのだろう。(ただ、たとえばポルトガル語ではじめに習う動詞esterとser(英語のbe動詞にあたるもの)は古代インドの影響であることをポルトガル語の先生から学んだことはあるが。)

この著書では、たとえば、「バイリンガル」ということは、アメリカでは教育程度の低い外からやってきた移民として考えられるという。「バイリンガル」ということが現在の日本人が考えるようにポジティブには考えられていないということらしい。移民たちは自国の文化への保守性もあり、自国の言語を引きずるが、住んでいるのはアメリカなので、やむを得ず英語を学ぶことになる。その英語もいやいややるわけで、発音もめちゃくちゃなのだろうから、アメリカ人には「バイリンガル」であることは、イクオール、下手な英語を話す「移民」と結びつくのだろう。

本書は、言葉というものを題材として、世界旅行に出かけた気分を味わうことができる良書。沼野氏の著書に今後とも目が離せそうもない。
by kurarc | 2015-07-31 00:23 | books

格変化をどう乗り切るか

ドイツ語やポーランド語には格変化という厄介な屈折語特有の概念が残っている。英語やロマンス諸語ではほぼ消滅した概念が、いまだに残り、学習者を困らせる。(つまり、このような言語を学習すると、フランス語などのロマンス諸語が簡単に見えてくるというメリットがある)

通常、入門者を対象とした語学学習書であると、主格「・・・が」、生格「・・・の」など、日本語の格助詞にあたる語がないために、語形変化する、といった説明のみが書かれている。

これは、10代で学ぶ学習者にとっては、このくらいでよいのだが、わたしのように50歳を過ぎてから語学を学ぼうとする人間には物足りない。そもそも、ポーランド語にはなぜ格変化が残ったのかとか、格という概念は一体なんなのかといった根源的なことまで説明してもらわないと、ただ暗記するだけに終わってしまう。暗記力はわたしのような歳になるとあてにできないので、その欠点を補う必要が出てくる。

わたしはその欠点を、理解力で補うのが中年以降の学習者には必要になってくる、と思っている。これはすべての分野に言えることだと思う。だから、中年を過ぎた人に何かを教えようとする先生方は、そのことをよく心得ていなければならない。さらに、暗記力が衰えているのだから、なるべく短時間に理解できるように説明しなければならない。語学の文法であれば、一日2時間〜3時間学習するとして、できれば1週間くらい(つまり15時間から20時間程度で)ですべてを終わらせるくらいがベストだろう。

ポーランド語の学習書をいくつか調べているうちに、上に述べたような事柄について解説してくれている学習書を発見した。『ポーランド語会話・文法』(ゴジェフスカ・ヨアンナ著、ユーラシアセンター共編、ベスト社)である。

たとえば、生格という概念を、古典ギリシャ語、古典ラテン語から説明し、「全体と部分の関係を表す」のが生格である、といったような説明がなされている。時間というものがなぜ生格で表されるようになったかが、時間の全体とその分割としての日付という事柄から明らかにされる。さらに、印欧祖語の原型をとどめていると言われるリトアニア語などと比較するようなアドヴァイスまで書かれている。

こうしたことは、10代の少年少女達には煩わしい余計な説明に過ぎないのだろうが(10代で上のような説明に興味をもったなら、言語学者になった方がよい)、われわれのような中年、年長者にはかえって記憶に残る解説となってくれる。これらを踏まえた上で、最後は暗記することになるが、それは、ただ暗記する回路とは異なる「大人の暗記の仕方、作法」になるのである。
by kurarc | 2015-07-29 22:26 | Poland

群論 対称性 エッシャー

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三鷹駅前に、三鷹ネットワーク大学という施設がある。高度な専門性をもつ様々な講座を受講することができるが、今晩受講したのは、「装飾模様のシンメトリーとエッシャーの世界」と題された講座。エッシャーの世界を数学を用いてわかりやすく説明してくれると勘違いして申し込んだが、講座は、群論という数学の講義を受講するはめになってしまった。

以前もとりあげた、ヘルマン・ヴァイルの名著『シンメトリー』という数学書の内容といってよいもので、講師の方は数学者であったから、繰り返し模様がもつ群論的世界の講義で、その数学的意味をおよそつかむことができたのは収穫であったが、実は、講座を受講中、腹立たしくて仕方がなかった。講座のタイトルと全く講義が異なるからである。しかし、専門家の方に群論の講義を受けたことは初めてのことであるし、家に帰ってからは、その怒りはある程度おさまり、ヴァイルの著書をよく理解できるようになった、と思うことにして、心を鎮めた。

数学といういうと、なにか難しいように思うが、実はそんなことはない。数学はいわば「数学語」という語学の一種だと思えばよいのである。符号、記号、専門用語(合同変換だの写像だの線形化など)がやたらと出て来るのが厄介なだけで、内容自体は以外と簡単なことの羅列なのである。簡単なことを難しくしている(非日常化している)だけなのだ。

それにしても、この講義で置き去りにされたエッシャーはかわいそうである。彼は、群論の世界、対称性の世界やユークリッド幾何学、非ユークリッド幾何学の事例を誰にもわかる模様で描いてみせた。彼こそ、最も立派な数学者なのであるが、今日の先生はそのことをいっこうにおわかりになっていらっしゃらなかったようだ。エッシャーを初めて知ったのは、中学生のときだったが、わたしは美術の課題で、エッシャーの絵画(上)をヒントに絵を描いた(いわば盗作)ことは今でもよく覚えている。

エッシャーに対して、また新たな視点で彼の作品を眺めることができそうなので、そのことも収穫と思い、怒りを鎮めることにした。
by kurarc | 2015-07-24 23:20 | design

多木浩二著『スポーツを考えるー身体・資本・ナショナリズム』

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最近の新国立競技場の問題でバタバタしていた政府の行動をみていると、そもそもスポーツとは何なのか、あるいはオリンピックとは何なのかについて思いを巡らさざるを得ない。

大学時代の学科の教授であった多木浩二先生が、上記タイトルの本を出版していることを思い出し、購入する。まだ、序章しか読んでいないが、多木先生がなぜスポーツを一冊の著書に取り上げたのか、よく理解できた。

スポーツとは、そもそもが近代に誕生した、非暴力モデルであること。さらに、イギリスで誕生し、それは、イギリスの支配階級で誕生した「余暇」に関係すること、近代スポーツはその発生当初から観客を含めた社会の中で成立してきたこと、スポーツは近代のアングロ・サクソンの発明であったことetc.

つまり、スポーツを考えることは近代以降の社会を考えることと同義となる、という視点である。わたしは特別にこだわるスポーツというものをもっていないが、オリンピックをはじめとする近代から現代以降のスポーツをとりまく社会には疑問を感じないわけにはいかない。その疑問は、すでに多木先生によって20年前に熟考されていたのである。
by kurarc | 2015-07-21 21:11 | books

娘の夢

たまにおもしろい夢を見る。昨晩見た夢はわたしの娘との会話の夢である。わたしに娘はいないが、その娘と娘が書いた1年間の日記のようなものを読みながら会話しているのである。娘の歳は小学1年生くらいであった。娘の書いた文章とわたしが書いた文章を比較しながら、大人になるとこれだけ長い文章を書くようになるのだよ、といったような会話を交わしたと記憶している。

夢の中の娘は可愛かった。わたしも四六時中笑顔で会話していた。きっと娘をもつ親の気持ちはこんなものであろうともう一人の自分に微笑んでいたように思う。

目標を達成するような現実的な「夢」ではなく、寝ているときに見る「夢」というのは自由で楽しいものである。夢日記をつける作家もいるというし、夢を自由に操ることができる人もいるという。わたしも楽しい夢であれば、メモをしておくのもよいかと思い、このブログにそうした夢の備忘録として、「sonho」というカテゴリをつくることにした。「sonho(ソーニョ)」とはポルトガル語で「夢」の意味である。英語の「dream」という言葉はあまりに俗化した言葉で、使う気にはならない。

ポルトガル語の「sonho」という単語の響きの方が夜見る穏やかな夢に近いような気がする。もちろん、これはわたしの勝手な思い込みである。これからどのような「sonho」に出会うことになるのだろう。
by kurarc | 2015-07-20 23:37 | sonho

ノート 過去の中にある未来

5年ほど前にお施主様の一人からいただいたモレスキンのA4版ハードカバーのノートがある。これを日々のアイディア(毎日のように書き留めている訳ではない)を書き留める手帳のようなものとして使用している。

おもしろそうなグラスができそうなので、最近、そのノートにスケッチをしていたが、ちょうど5年前のメモ書きを見ていて驚いた。わたしはすっかり忘れていたが、この頃、先日観劇したペソーアの特集号『現代詩手帖 特集フェルナンド・ペソア』を読んだメモが書かれていて、そこに、「シェイクスピア ソネット」と記されているではないか。

ペソーアはシェイクスピアを高く評価していたこともあり、この『現代詩手帖』にもそのことが書かれていて、それをわたしは何げなくメモしていただけなのだが、それから5年後に、映画という別の経路でこのソネットに出会ったのである。

こうしたことを知ると、いつもこのブログでも書いているように、過去の中に未来がある、ということを自覚するのである。と同時に、やはりメモや手帖のようなものを書き留めておくことは、自分の未来を知ることに役立つ、ということになる。

過去の中に自分自身の予言が含まれているというのは、なにか不思議な感じがするが、些細な経験もすべて自分自身の身体の中に刻まれていくということなのかもしれない。最近はじめたポーランド語の学習も25年前にやっていたことである。すべてはつながっていく、ということか。
by kurarc | 2015-07-18 17:48 | saudade-memoria

久しぶりにビールを飲む

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暑い日が続いていることもあり、久しぶりにビールを飲んだ。GRAND KIRINというビールである。様々なビールが販売されるようになったが、そのシンプルな瓶のデザインにひかれて、触手をのばしてしまった。

日本のビールはおいしいと思ったことはあまりないが、このラガービールのレベルはかなり高い。重たいビールではないが、軽いというビールでもない。このビールがもう少し深みのある味と苦みが増せば、地ビールではないメジャーなビール会社のビールとしてお薦めできる。

HPを見て知ったが、この瓶のデザインにはかなりこだわっているという。瓶の軽さ(最軽量だという)を追求していること、ビールの口周りのデザイン(「そろばん玉」という凹凸)や底の丸み、500mlの缶ビールと直径、高さをそろえたことなど、こうしたこだわりが味にも影響を与えているのだろう。
by kurarc | 2015-07-16 20:58 | gastronomy

建築家T.I.の自伝 

たまたま購入した週刊文春7月23日号の記事の中に、日本で現在最も著名な建築家の一人、T.I.氏の履歴書の記事が掲載されていた。(記事は、『新家の履歴書』という名称)

家族の話、芦原義信氏設計による自邸の話、苦労話など興味深いエピソードが豊富で、記事の内容を楽しませてもらったが、この記事の最後の文章に落胆した。

「東京もつまらなくなってきたので、もう少し歳をとったら、1年の半分くらいはそこ(大三島をさす)で過ごせたらいいな・・・」

東京を拠点としてさんざん活動してきた世界的な建築家の言葉がこれである。こういうことを言うから建築家という人種は信用されないのだと思う。やはり、この人は好きになれない。
by kurarc | 2015-07-15 12:20 | architects

銀座 伊東屋リニューアル

銀座の伊東屋がリニューアルした。以前の込み入った店内とは様変わりし、デザイン性を重視した建築と店内に変化した。

しかし、わたしが感じたのは、そのデザイン性が果たして成功しているのか?ということである。われわれのような建築デザインを行うものが特に注意を要するのは、デザインが先行してしまって、建築プログラムの内実とズレを生じてしまうこと。伊東屋のような文具店であれば、文具のデザインとそのプレゼンテーション方法がうまく調和し、商品が利用者にわかりやすく配列されることである。

わたしが感じたのは、商品の魅力を引き出すような配置が置き去りにされ、デザインが先行してしまった新しい伊東屋の姿であった。店内を歩きやすく整理しようとする意図からであろうか、品数をかなり以前の店舗より制限していた。つまり、高級な商品を充実させ、安価な文具は世界堂にでも任せておけばよいというようなコンセプトに思えた。

このコンセプトは銀座という都市を考えると当然のことかもしれないが、伊東屋に行けば、なんでもそろうという今までのイメージは捨て去ってしまったため、わたしにとっては物足りない店内であった。

残念ながら、銀座伊東屋はわたしにとって魅力のない文具店に変化してしまった。わたしは世界堂の方に通うことになりそうである。こう考えるのは多分わたし一人ではないのではないか?

*なんで伊東屋はもっと個性的なデザインを追求しなかったのだろう。建築は「今どき」のデザインである。もちろん、美しくよくできた建築であることは確かであるが、こうした建築はいくらでもある。文房具店の概念を変えるような建築、インテリアがほしかった。(それをねらったのかもしれないが、あくまで文具店であることを保持した上でのことである)逆に言えばデザインが足りない、と言えるのかもしれない。
by kurarc | 2015-07-11 23:30 | design

おいしい珈琲とは?

カフェや珈琲の話題が絶えない。様々なチェーン店が世界各国から押し寄せてきては東京に出店している。

こうなると、本当においしい珈琲とは何なのか、どういう淹れ方が珈琲にあっているのか知りたくなる。ペーパードリップか、ネルドリップか、プレスか、エスプレッソか、水出し珈琲か、珈琲メーカーか・・・?

ペーパードリップ派が自宅で淹れる人間では圧倒的に多い気がするが、この淹れ方は、合理的であるが、本当に美味しいのかいつも疑問に思う。それに、一人で淹れるにはあまり適合しない淹れ方のように思う。

エスプレッソは、かなり高級なマシンを買わない限りうまみが抽出できない気がする。

そこでわたしがお薦めするのが、水出しである。以前にもこのブログで書いたが、この水出しがよいのは、まずは、暖かい珈琲をのぞまなければ、淹れるときに電気代、ガス代がかからないこと。ゆっくり抽出するため、味が濃厚であること。しかし、弱点は豆の量が2倍以上必要なこと。そう考えると、価格の点ではむしろ高価になるかもしれない。

朝の慌ただしい時間を少しでも緩和するには水出し珈琲は役に立つ。夜のうちに仕込んでおけば、朝方にはできているからである。暖かいものがのみたければ、パンを食べている間、コンロに極弱火でかけておけばよい。カフェオレなどにも対応しやすい。

夏場には冷蔵庫でつくれば、朝にはアイスコーヒーができている。(わたしは冷たい珈琲は飲まないが)水出し珈琲という現在廃れてしまった淹れ方が、以外と上質な珈琲の淹れ方なのかもしれないと今は思っている。
by kurarc | 2015-07-10 00:03 | gastronomy