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(仮称)牟礼6丁目ディサービスセンター 建設過程-04

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台風後の低気圧による強風、雨もやっとおさまり、今日は、2階コンクリートの打設を行う。

2階はデッキプレートが敷かれており、その上にコンクリートが打設された。このデッキプレートは合成スラブといわれるもので、単なる型枠の機能だけでなく、構造的機能を合わせ持つデッキプレートである。

後日、トイレや流しの排水口部分に穴を開けるため、その周りの開口補強も現場にて確認。1階外構周りのコンクリート工事までコンクリート工事は当面ない。まずは、これで現場が落ち着くことになる。

コンクリートが乾くと、その上に壁の位置を確認しながら墨出しを行うことになる。今週後半からは、屋根を葺いていく。

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by kurarc | 2017-10-31 16:45 | 三鷹ディサービスセンター

fragment2017/10/30 瞽女(ごぜ)という文化

*映画『はなれ瞽女(ごぜ)おりん』(篠田正浩監督)を観る。決して成功した映画という訳ではないが、瞽女(ごぜ)という日本に存在した(現在も存在する?)人間(盲目の女性)のあり方に感動する。はなれ瞽女を演じた岩下志麻さんの盲目の姿は菩薩像のよう。映画音楽を担当した武満徹の音楽が良い。

*瞽女(ごぜ)うた(唄)と日本の伝統的音楽との関係は?

*盲目の女性たち=瞽女(ごぜ)が歌う唄を聴く文化はどのように成立したのか?唄とはそもそも何か?

*瞽女(こぜ)以外の旅芸人の文化について、非定住民の文化について

*瞽女(こぜ)たちはなぜ越後、越前という地域に多く存在したのか?日本全国にいたのか?

*盲目の人たちの文化とは?

*近代はなぜこのような人たちを排除したのか?近代以前はなぜこうした人たちを受け入れられたのか?
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by kurarc | 2017-10-30 22:27 | fragment

宮崎 チョウザメのグリーンカレー

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先日、新宿のショールームに行った帰りに、いつも前を通り過ぎていた"みやざき物産館"に立ち寄った。

わたしにとって、九州は憧れの土地である。花田清輝、作家の檀一雄、建築家では磯崎新など独創的な仕事をする人が九州生まれには数多い。わたしは、東よりもむしろ東京より西の土地に惹かれてきた。沖縄へ行ったのもそのあらわれであるし、それが高じてポルトガルにまで行き、住むことになってしまった。九州の中で、佐賀と宮崎にはまだ行ったことがない。以前、宮崎生まれの建築家、武田光史氏の事務所で熊本のプロジェクト(この建築は日本建築学会賞を受賞した)のお手伝いをさせていただいたこともあるし、宮崎生まれのクライアントの方の仕事をさせていただいたこともある。

武田さんの事務所でお手伝いをさせていただいているとき、宮崎の郷土料理屋に連れていっていただき、冷汁の味も知った。奄美大島にも冷汁に似たご飯の食べ方(鶏飯、冷汁のように冷たいものではない)がある。義理の姉が奄美出身のこともあり、冷汁を食べた時、鶏飯を思い出し、南国を感じたのである。

宮崎はチョウザメを食べる文化があるようで、わたしは店の中を歩きながら、美しいグラフィックに惹かれたこともあり、また、グリーンカレーが好きなこともあり、レトルトを買って帰った。チョウザメは鶏肉にも例えられ、白身のあっさりとした味である。グリーンカレーの具材としてもよく調和し、美味であった。

チョウザメという魚のことを詳しくは知らなかったが、世界最大の淡水魚であり、サメの仲間ではなく、チョウザメ科として独立した種であるという。鱗が蝶のかたちに似ていることと、姿がサメに似ていることからチョウザメと命名されたが、サメとは似て非なるものということである。宮崎県では養殖が盛んであるらしい。

宮崎に行くことがあれば、チョウザメの寿司など、チョウザメ料理を堪能できればと思う。そして、できればキャビアも味わいたい。

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by kurarc | 2017-10-28 18:22 | gastronomy

池袋 新文芸坐

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雑用で池袋に行った際、新文芸坐の様子を見に立ち寄った。池袋の東口、ストリップ劇場のあるような猥雑な繁華街を抜けた先に新文芸坐がある。新文芸坐はすでに新しい建物に建て替わっていたが、その建物の3階に映画館は生き残っていた。ここへ来るのは多分、15、16年ぶりくらいになるだろうか。最近、旧作映画はDVDで見ることが日常茶飯事になり、映画館から足は遠のいている。

以前も書いたが、この新しい建物になる前の新文芸座を設計したY先生は、わたしの予備校時代の絵の先生であった。わたしたちによく映画のただ券を配ってくれたので、ここに通うこともしばしばあった。東京における映画館の聖地の一つといってよい場所である。

興味をひいたのは、無声映画が上映されていること、いまだにオールナイト上映がなされていることである。学生の頃はたまにオールナイトで映画を観ることがあったが、ここ30年くらい、オールナイト上映からも遠ざかっている。

先日紹介した『talk to her』という映画で重要な役割を果たしているのは無声映画で、映画内映画として登場している。わたしも無声映画はほとんど観た経験がない。今度、無声映画を観に、新文芸坐を利用したいものである。

*新文芸座の無声映画には、弁士が入り、ピアノ演奏が入るものもある。
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by kurarc | 2017-10-27 14:18 | cinema

(仮称)牟礼6丁目ディサービスセンター 建設過程-03

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このところ雨続きで、現場として厳しい状況が続いている。

屋根の母屋が本日、無事完成し、明日からこの上に耐火野地板が貼られる予定である。屋根の小屋梁まわりのブレース材もすべて施工が完了した。来週早々には2階デッキプレート上部のコンクリート打設となるが、その前に台風が上陸するようなので、心配である。今後は、天気との戦いが続きそうである。

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by kurarc | 2017-10-26 16:11 | 三鷹ディサービスセンター

芥川龍之介と南蛮、日本語の難しさ、日本語の未来

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新潮文庫の中に、芥川の『奉教人の死』というタイトルの文庫がある。芥川がキリシタン文学を研究し、当時の文体を借用しながら実験的な作品をつくったものなどをまとめたものである。その内容にも興味があるが、ポルトガル人やスペイン人が渡来した16世紀に日本人が彼らの話す言葉をどのように日本語に書き写したか(発音したか)が、芥川の作品の中に散りばめられていて、興味深い。

例えば、以下のような言葉(ポルトガル語)である。(左:当時の読み方、右:現在の発音(わたし自身がカタカナで記す場合)

*はらいそ(意味:天国)/パライーゾゥ
*いるまん(意味:兄弟)/イルマォン
*えけれしゃ(意味:教会)/イグレージャ etc.

当時の日本語にあった音に関しては、かなり近い音を書き取ることができたようだが、鼻母音などの難しい音は聞き取れなかったものと思われる。しかし、そのように断定することは早計で、もしかしたら当時、そのようにポルトガル人たちが発音していた可能性も否定できない。ラテン語だが、「mundi」を当時は「ムンジ」と書き取っていて、これはもしかしたら、ポルトガル語の「munde」(ムンドゥ)も「ムンジ」と発音していたとすれば、ブラジルポルトガル語と同じ音になり、古い発音が残っていると言われるブラジルポルトガル語に近い発音を当時の「バテレン」たちは話していた?とも推測できるのである。

こうした南蛮人渡来期の日本語の研究者の一人にあの広辞苑を編纂した新村出がいる。彼のもう一つの顔は、南蛮文学、キリシタン文学の研究者である。言語に興味を持つものにとって、このキリシタン時代の日本語に興味を持つということは必然的で、宣教師たちが研究した日本語は、当時の日本語がどのような発音と語彙があり、文法であったのかの貴重な資料なのである。

最近読んだ『漢字と日本人』(高島俊男著、文春新書)という書物の中にも、新村出が登場した。この書物で初めて気がついたが、明治から戦前にかけて制定された当用漢字は漢字廃止への流れの中で決まった、ということである。戦前の研究者は日本語の音標化、つまり、西洋の言葉のように日本語を表音文字化しようと真剣に考えていた。そのことに一人強く抵抗した学者が新村であった。新村の考えは、過去と現在を切断しないという日本語のあり方を述べたものであり、日本語を道具に過ぎないように考え、変革しようとした学者たちを痛烈に批判した、という。

わたしは、日本語の使い方がよく分からないことがある。その一つは、漢字で書くべきところとひらがな表記すべきところである。高島の書物を読み、その使い分けがある程度理解できるようになった。高島が言うには、和語としての言葉は、ひらがな書きでよいとのことである。(高島の書物により、本居宣長の意義についても、理解できるようになったことは収穫であった。)

高島によれば、日本語は畸形的な言語である、という。和語(やまとことば)、字音語(漢語+和製漢語)、外来語、混種語(プロ野球、食パンなど)といった様々な言い方、書き方が並存する。高島の考えは、これらを伝統として認めることでしか日本語の未来はない、という見解である。芥川の南蛮文学は、そうした多様な日本語のあり方の表現実験の一つであったと捉えるとよいのかもしれない。




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by kurarc | 2017-10-25 22:14 | books

映画『talk to her』

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アルモドバル監督の映画『talk to her』を15年ぶりくらいに観直した。劇場で公開されたときに観て以来である。こんなにも素晴らしい映画だったことまですっかり忘れていた。

ピナ・バウシュの舞台『カフェ・ミュラー』から始まるこの映画は、最初から最後まで、涙の意味を問う主題が貫かれ、その中に、様々な愛のかたちが挿入されている。二人の昏睡状態になった女性が対比して描かれるバロック的映画。

途中、エリス・レジーナの声とカエターノ・ヴェローゾの生演奏がスペイン映画を異化、映画の色彩もスペインらしい。そして涙。ここではアルモドヴァル監督が述べるように、涙は悲しみではなく、「美は痛みたりうる」というコクトーの言葉からインスピレーションを得た「美しさに対する涙」であり、「痛みに似た感情」としての涙が表現されている。「人はあまりに美しいものに出会うと、喜びよりむしろ痛みに近い感情から涙があふれてくる」、そのようなアルモドバルの思いが映画の中で表現される。

昏睡状態の一人を演じるレオノール・ワトリングが輝いている。チャプリンの娘ジェラルディン・チャプリンも重要な役で登場し、映画に深みを与えている。泣く男、マルコを演じたダリオ・グランディネッティとワトリングの看護師役ハビエル・カマラも絶妙の配役。傑作といえる映画である。

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by kurarc | 2017-10-23 23:11 | cinema

Dusan(デュージャン)のギター

デュージャン・ボグダノヴィチのギターリサイタルに行ったのは何年前だっただろう。久しぶりに彼のCDを聴き、その音楽の独創性と力に圧倒された。リサイタルは確かカザルスホールでの演奏会であった。多分26、27年前のことだったと思う。彼のCD『Worlds』というCDカバーに写っているサウンドホールが楕円形のギターを使用しての演奏会であった。

デュージャンは、ユーゴスラヴィアのギタリストである。彼は、フランス語でいう”LEVANT"、すなわちフランスから見たとき東方の国々、ギリシャ、ユーゴスラヴィア、ブルガリアといった自らのルーツとなる音楽を探求しながら、さらに遠くインドやアフリカの音楽(最近は中国、韓国、日本まで)までを視野に入れて、自らギター曲を作曲する作曲家であり、演奏家である。

彼の音楽は、民族音楽の探求を始め、クラッシック、ジャズに影響を受けながらも、それらどの領域にも属さないような境界の音のように聴こえる。日本には優れた演奏をするギタリストは数多くいるが、自ら演奏する曲を自らつくり発表していくようなギタリストはあまり思い浮かばない。彼の音楽は、大地にしっかりと足のついた音楽といったらよいのだろうか、ラジオからなんとなく流れてくる音楽とは一線を画す。音楽の研究者であり、実践者、その両者を兼ねた稀有なギタリストである。

ユーゴスラヴィアという土地のせいなのかどうかわからないが、落ち着いて静かに音楽の世界に浸れるのかもしれない。理知的なギター音楽、それがデュージャンの世界である。彼のCDは3枚持っているが、どれもm・aレコーディングズというレーベルの優れた録音による演奏を聴くことができる。ライナーノーツも付属していて、デュージャンによる曲の解説も充実している。最近、こうした優れた音楽を聴くことを怠っていた。”LEVANT"の世界にももう少し深入りしなければ・・・
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by kurarc | 2017-10-22 22:45 | music

(仮称)牟礼6丁目ディサービスセンター 建設過程-02

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週末の台風が来る前に、1階スラブの配筋検査を行うことに。この小雨の中、屋根では軽鉄による母屋の施工(写真)が行われた。

2階のデッキプレートも敷き終わり、2階コンクリート打設までの準備を整えている段階である。

床ができ始めると、やっと建物の大きさの感じがつかめてくる。建方時に感じていた大きさと印象がだいぶ異なる。かなり、広々とした印象に変化した。

月末までに屋根の野地板を施工し、来月からは、屋根が葺き始められる予定である。

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by kurarc | 2017-10-20 14:04 | 三鷹ディサービスセンター

ジョビン 『inédito』(イネーヂト)を聴く

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このCDをこのブログで取り上げたのは、ちょうど7年前になる。この季節に聴きたくなるCDなのかもしれない。

ジョビンの数多くのCDの中で1枚を選べ、と言われたらわたしは迷わずこのCDを推薦したい。もともとジョビンの還暦を祝ってプライベートで制作されたCDであったというが、そのクオリティーの高さに驚かされる。家族や知り合いのミュージシャンが何気なく集まってこうしたCDをつくってしまうというのは、驚かざるを得ない。

”inédito"とは、ポルトガル語で「未発表の」といった意味で、このタイトルには、ジョビンの優しい知性が感じられる。”inédito"にはもう一つ、「前代未聞の」と言う意味もある。つまり、未刊の作品の中には、その秘めた可能性が含まれているということなのだと思う。こうした意味の対照はポルトガル語らしい。一見、消極的に感じられる意味の中に、実は人には伝わりにくいが、ポジティブな意味が隠されているということである。

このCDの3曲目、わたしの大好きな曲”sabiá"(サビア)という曲の歌詞は、「戻ること」、「還ること」を歌う。人は「行くこと」、「進む」ことに積極的な意味を感じとると思うが、ここでは「戻ること」の意義を歌う。どこに戻るのか?それは歌詞の中にあるように、「自分のいるべき場所」へ戻ることだと。自分のいるべき場所にいないのなら、戻り、還ることをが必要だというのである。それは”voltar"というポルトガル、ブラジル人の好きな単語で表現されている。そしてこの曲では、”sabiá"(サビア)という小鳥のさえずる場所へ還ることが本来の自分の場所だと歌うのである。

”sabiá"(サビア)というポルトガル語は、ポルトガル語を知っているものには、もう一つの動詞を思い浮かべる。”saber"という動詞であり、”sabia" (アクセント記号がとれる)とは、この動詞の不完全過去形で、「(ずっと)知っていた」を意味する。ずっと以前から知っていた場所、すなわち、自分の場所に戻ること、をこの言葉の中に含ませているのかもしれない。

このCDにはすべて国安真奈さんの訳詞が付け加えられているのもよい。ジョビンの歌った世界の理解に役に立つ。それにしても、なんと優しい音楽なのだろう。


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by kurarc | 2017-10-18 19:49 | music

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by S.K.
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