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再会映画

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偶然にも最近観た映画は「再会」をテーマとした映画であった。一つは『ライオン』、もう一つは『家へ帰ろう』である。

映画『ライオン』は実話をもとに映画化された。インドの貧しい家庭で暮らす5歳の少年が兄と離ればなれになり、何千キロも離れたカルカッタへ行き着いてしまう。迷子と見なされ、誰も探している相手がいないと見なされた少年は、オーストラリアへ養子として引き取られ、幸せに過ごすが、離ればなれになった母や兄のことが忘れられない。そして、グーグルアースを頼りに25年ぶりにインドへと旅立つ・・・映画『家へ帰ろう』では、ユダヤ人としてポーランドのウッチで生まれた青年が70年という時を隔てて、命の恩人であるポーランド人を探しに人生最後の旅にでる・・・という映画である。

その他、再会をテーマとして思い浮かぶ映画といえば、『ロング・エンゲージメント』が印象深い。再会は生者との再会だけではない。たとえば、『エル・スール』では、かつて父の故郷であった南スペイン(セビーリャ)へ娘が旅立つことで終わるが、これも父の魂との再会を暗示していると言えるだろう。「再会」は人間にとってなにか普遍的なテーマとなる出来事である。それは、人との再会だけではなく、かつて訪ねた、あるいは住んだ都市(街)との再会にも言える。わたしは、たまにかつて住んだ街、自由が丘や川越、鎌倉にも時折足を運んでみたくなるし、現在は2年ほどくらした沖縄(那覇)やポルトガルのリスボンの街が無性に恋しい。

再会したくなるのはなぜなのか。それは人間の時間感覚による気がしている。時間は直進的ではなく、らせん状であると思えるからである。かつて過ごした時間がある段階でまた意識の中に浮上してくる。それは1年や2年ではなく、10年前後、または10年以上の時間を隔てて起こることのように感じる。かつて観た映画を観たくなるのもこの「再会」の感覚と重なる。人は通り過ぎるだけでは満足できず、かならず経験したこと、体験したことにもどるのである。

一昨年は50年以上まえに父と過ごした海辺を訪ねるという旅をしたのも、こうした「再会」への熱望であった。もちろん父はもはや存在しないが、風景の中にかつての父の面影、海で泳ぐ姿を思い出すことができ、胸が熱くなった。昨年は20年お会いしていなかった恩師とも奈良で再会した。今年はどういった「再会」が待っているのだろうか・・・

*死者との再会といえば、『カオス・シチリア物語』のラストシーンがよい。ピランデッロとその死んだはずの母との会話である。わたしはいまだにこのシーンでかわされる母の言葉、「ものごとを、それをもう見なくなった人たちの目でも、見るようにしてごらん!・・・」の意味がわからない。

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by kurarc | 2019-01-27 19:58 | cinema

アントニオ・タブッキへの郷愁から

ユリイカ2012年6月号『アントニオ・タブッキ』の中の堀江敏幸氏と和田忠彦氏の対談を読んだ。一人の作家を理解することはその作品だけでは理解できないと思うが、この対談は、そうした作品から漏れたタブッキの人間について理解する手がかりを教えてくれている。

どうもタブッキがペソアというポルトガルの詩人の研究を始めたのは、パリで彼の妻となるポルトガル人マリア・ジョゼとの出会いではないか、といったことが対談の初めに記されている。マリアがペソアの研究者であったのである。好きな女性から、あるいは付き合った女性から男性は何らかの影響を受けるものである。それは、女性についても言えることではないだろうか。

わたしはよく初めて会う女性にその女性の趣味を訪ねる。ある女性はバイクが趣味だ、と言ったりする。その容貌からどうみてもバイクが好きな女性とは思えない。多分、彼女はバイク好きの男性と過去に付き合っていたのだろうと想像する。

そのように男女は多かれ少なかれ影響を与え、与えられる存在だと思うから、タブッキは偶然にもマリアとの出会いによってポルトガルにのめり込み、果てはポルトガル語で作品を書くようにもなってしまった。そうした、彼の生き方、作家としての表現について、もう少し踏み込みたくなってきた。彼が亡くなって7年になるが、日本語で読める彼の作品を少なくともすべて眼を通したいと思うようになった。

それと共に、忘れようとしていたポルトガル(わたしの場合はリスボンに対する郷愁)への郷愁も蘇ってきた。最近ポルトガルに行った知り合いの方から、随分と変わりましたよ、と情報をいただく。それがどのような変化であるのか気になってきた。今年はもしかしたら20年ぶりにポルトガルに行くことになるかもしれない。

by kurarc | 2019-01-24 16:23 | Portugal

映画『シグナル 月曜日のルカ』 高田世界館

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映画『シグナル 月曜日のルカ』という映画を観た。監督は谷口正晃氏。この映画を観たのは、監督には少し失礼だが、この映画の舞台となった新潟上越市(高田)の映画館「高田世界館」(下写真、高田世界館HPより引用)を見たかったからである。

「高田世界館」は、日本で最古級の映画館と言われる。以前からその存在は知っていたが、たまたま瞽女のことを調べていて、この高田の街に行き着き、再会(ネット上で)することになった。初めて内部を見たが、この映画館は、わたしが子供の頃どこにでもあったような街の映画館の様相をそのまま維持していることがわかった。それにデジタル上映ではなく、フィルム上映を続けているようだ。

映画もなかなかの出来栄えであり、この映画館の重さのようなものと、主人公ルカの過去がうまく二重写しとなり、見応えがあった。また、映画の光の感じが明るすぎず、昭和の光をうまく写し取っていた。やはり、安易な言い方だが、なつかしい空間である。

なぜ、日本ではこうした映画館建築を維持できなかったのだろう。まだ、高田世界館は残っているが、こうした映画館は全国に点在していたはずなのだが。わたしは最近、本当に映画が好きになり、映画に感謝する日々を送っている。近いうちに、この高田の街を訪れ、高田世界館で映画を観て、瞽女の文化を知り、雁木の建築を体験したいと思っている。

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by kurarc | 2019-01-20 22:47 | cinema

防災建築

阪神淡路大震災から24年が経過した。3.11からも8年を迎えようとしている、その間、防災について私たちの身の回りは進んだのだろうか。まずは、他者に頼るのではなく、自分で工夫できるところ、準備すること、ものなどを考えておかなければならない。

わたしは建築を設計する立場から、建築の中で、いざというときに役に立つデザイン、しつらえなどを考えた空間をつくりたいと思う。単に「きれいに」、「かっこよく」デザインする建築はわたしは必要ないと思っている。建築が地震や火災に強いものとすることは当然だが、万が一の災害のときに、思いがけない機能を果たすような建築、住宅を設計することが必要に思われるが、その実現にはクライアントの方々にも賛同していただかなくてはならない。

たとえば、来月着工される建築には土間がある。こうした空間をつくっておけば、ここで自由に直火も使えるし、煮炊きもできるだろう。フローリングだけの住宅では、万が一のとき、火を使うことは危険である。土間ができなければガレージのようなスペースや屋上、軒の深いテラスなども有効利用できそうである。

住宅を設計するときに、日常的な機能だけでなく、災害時など非日常的な出来事にも想像力をはたらかせて、空間をしつらえておくことが望まれるだろう。そうした防災建築でもある空間を地域の中に確保したい。もちろん公共の建築物でこうした備えがあればよいのだが、住宅の中で一つ一つつくっていくことも必要だろう。その結果、住宅は個人のものから離れて、地域の財産となるだろう。そうした広がりのある住宅を設計をしたいものである。

*土間のある住宅の土間は、わたしからの提案ではない。しかし、万が一のときに有効活用できる空間になりそうだと、勝手に思っている。

by kurarc | 2019-01-19 17:07 | archi-works

澁澤龍彦著 『鳥と少女』

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建築家青木淳氏の『建築文学傑作選』についていくつか書いてきた。青木氏による解説に焦点を絞っていたが、肝心の青木氏が選定した小説についてもふれておきたい。

10編の小説ほかの中に、澁澤龍彦著の『鳥と少女』が含まれていた。文庫本では『唐草物語』の最初に所収されている。この文庫は買ってあったが、読んではいなかった。澁澤は、建築(建築家)に言及した文章も数多くあり、『胡桃の中の世界』が最も建築的随筆といえるかもしれない。この中の「幾何学とエロス」では、フランス啓蒙主義時代の建築家、ルドゥーの建築について言及している。わたしもルドゥーのショーの理想都市(製塩工場)は34年ほど前に見学した。

澁澤龍彦著の『鳥と少女』を初めて読んだが、映画にでもしたくなるような美しく、悲しい物語である。ここで「鳥」とは「パオロ・ウッチェロ(イタリア語で鳥の意)」というルネッサンス初期の実在の画家をさす。「少女」は「セルヴァッジャ」と名乗る。このセルヴァッジャがウッチェロと暮らすことになるが、ウッチェロは生き物ではなく、生き物の形態に異常な興味を持つ画家であり、さらに、遠近法にとりつかれた画家であった。そうした偏屈な画家との暮らしは楽なものではなかった。食べるものもろくになくなり、とうとうセルヴァッジャは・・・

この物語を読んでいたときに思い浮かんできたのは、フェリーニの映画『道』であった。ザンパノという大道芸人と彼に付き添うジェルソミーナの運命。あれほど悲しい映画があるだろうか。わたしの最も好きな映画の一つ。そんな映画を思い浮かべた。

澁澤はこの悲しい物語を少しでもやわらげようと、最後に話題を変える。変えると言っても、『鳥と少女』という内容に即したオチを付け加えたのだが、澁澤当人にとっても悲しすぎたのだろう。イタリアらしい物語である。

by kurarc | 2019-01-15 23:23 | books

「仮託」という思想

建築家青木淳氏の『建築文学傑作選』について、少し前にこのブログでふれたが、その解説の中に、もう一つ重要な言葉を発見した。それは、「仮託」という言葉である。この「仮託」という言葉は以前、今関敏子著『旅する女たち 超越と逸脱の王朝文学』という書物の第4章、紀貫之の『土佐日記』を論ずる文章で出会った言葉でもある。紀貫之は、この日記文学で女性に仮託して新しい表現に挑戦した。

そこで、建築ではどうか。青木氏は興味深い建築作法について書いている。「建築は、自分が自分から離れるための行為でもある・・・」と。常々わたしが建築を設計するときに思っていたことを的確に表現してくれていた。それを青木氏は「仮託」という言葉で説いていたのである。

「建築家は、自分がいいと思うものをそのままつくっているわけではなく、自分の感覚を置いておいて、つまり丸腰になって注文主の懐に飛び込んで設計している。・・・つまり、建築家は注文主の感覚に仮託する。自分のための建築ではなく、他の人のために設計しているからである。」

以上のように述べた上で、さらに青木氏は以下のように付け加えている。

「仮託しなければ思い通りの建築ができるので、そのほうがうれしいか、というとそうでもない。なぜかというと、それでは、自分の感覚の枠組みを決してこえることはできないからだ。・・・仮託によって、自分の感覚が組み変わる瞬間、・・・この瞬間のために、建築をやっているといってもいい。・・・」

今まで、わたしが無意識に思っていた考えを明確に表現してくれたような言葉であった。これをわたしは「仮託の思想」と呼ぶことにしたい。それはわたしであり、わたしでもないものをつくること、表現する行為であり、わたしを超えるための思想となるだろう。

*「仮託」という言葉に出会ったのはおよそ10年程前に書いていたブログ「紀貫之の革新性 仮託という思想 旅する女たち」(2009年8月30日のブログ)であった。自分の言葉になるには随分と時間がかかってしまった。ここでも、わたしは「仮託という思想」という言葉を使っていたことをすっかり忘れていた。さらに、ここで、ポルトガルの詩人フェルナンド・ペソアの「異名」という表現行為についても言及した。


by kurarc | 2019-01-14 12:35 | books

ヤオ・スーロン 「情人的眼涙」

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映画『言えない秘密』の中で、重要な歌声を聴かせてくれているのは台湾出身のヤオ・スーロンである。彼女が歌うのが「情人的眼涙」。英語では「Lover's Tears 」と訳されている。愛しい人と別れるときの涙を歌ったもの。サンディー・ラムのレパートリーにもなっているが、こちらは、ポップスとして歌っている。

日本ではテレサ・テンが有名だが、そのテレサと肩をを並べるほどの歌手のようで、わたしはまったく知らなかった。アジア人を代表するような女性の歌声は、悲しい歌であるにもかかわらず、どこか明るい。最近、この明るさがアジアらしさのような気がしている。映画の中では、シャンルンとシャオユーが偶然にもこの曲を好きだと言うこと知り、愛情が深まる。

こうした歌を映画に挿入することは、香港映画の影響であるなど言われているが、この曲の挿入は、この映画になくてはならない断片となっている。そして、映画の主題とも絡んでいて、彼女の優しい歌声が映画を柔らかく包んでもくれている。

相変わらずこの映画のサントラをよく聴くが、彼女の歌声で心がホッと落ち着く。これはアジア人女性の声の魅力であり、わたしが正真正銘のアジア人であるからであろう。

by kurarc | 2019-01-13 14:47 | asia

タブッキ アソーレス諸島に関するノート

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アントニオ・タブッキの小説に日本語で『島とクジラと女をめぐる断片』と題された小説がある。この原題は『ピム港の女』。翻訳者の須賀敦子が小説の内容を踏まえて、「島と・・・」にしたものである。

わたしは以前にも書いたように、須賀の翻訳でポルトガルの小説であるにもかかわらず、「サウダーデ」を「サウダージ」というブラジルポルトガル語に翻訳した初歩的なミスを犯していることを知ってから、彼女が翻訳した(タブッキの)小説を読む気がしなくなった。しかし、少し前にブログで取り上げた建築家の青木淳氏がタブッキの小説として初めて『島とクジラと女をめぐる断片』を読んだことを知り、読んでみることにした。

この小説は、ポルトガルの大西洋沖にある群島アソーレス諸島を舞台としている。わたしもポルトガル滞在中、この群島の一つ、テルセイラ島のアンゴラ・ド・エロイズモという世界遺産となっている都市を訪れた。タブッキの小説を読む限り、わたしはタブッキがこの群島を訪れ、小説の題材となるような断片をノートし、その中から一つ一つを小説として仕上げていったのではないか、と想像された。わたしには小説というより、タブッキのアソーレス諸島に関するノートといった仕上がりである、というのが正直な感想である。

だから、この小説は、須賀が「・・・断片」と題したように、取るに足らないエピソードをノートし、またはカードにしたものを手がかりに書かれていると思われるから、必然的に断片にならざるを得なかったのではないか。よって、断片化という主題がタブッキの中にあったことは認められるも、その必然性もあったのだから、この小説のタイトルに「・・・断片」という言葉を入れることは実は必要なかったのではないか。わたしであれば、やはり原題通りでよかったのではないかと思ったのである。

それはさておき、この小説群のなかで、わたしは「アンテール・デ・ケンタル-ある生涯の物語」と「ピム港の女-ある物語」が特に読みやすく、印象深かった。前者はアソーレス出身のポルトガル詩人の生涯を凝縮した小説、そして、もう一つは、タブッキがアソーレス諸島滞在中に出会った老人から題材を借用したと思われるような小説で、どちらも映像が浮かび上がってくるような描写がよい。

アソーレス諸島という日本でもまだ知られていない群島であるために、この小説は日本人にとっては特に想像をかきたてられるものになっているかもしれない。小説の最後に補注があるが、この群島にはフランドル人の植民地化もあり、民族音楽、民間伝承にもその特徴が残っているという。ポルトガルの歴史は、この群島のことだけでなく、本国の歴史の理解のためにも実はフランドル世界との交流の理解が重要であるのだが、そのことはあまり知られていないかもしれない。

タブッキがポルトガル本国だけでなく、アソーレス諸島まで小説の題材としていることを知り、彼のポルトガル世界への興味の深さを知ることができたことは収穫であった。『インド夜想曲』も映画は観たが、須賀の翻訳であるので読んでいない。が、一度は読んでおいた方がよさそうである。

*ピム港はファイアル島オルタ(Horta)の南に位置する小さな入り江を指すようである。ピム港とグーグルで検索しても出てこない。

by kurarc | 2019-01-11 23:51 | books

ビル・エヴァンス B Minor Walts (For Ellaine)

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映画でも音楽でも、思い出したように観たくなる映画、聴きたくなる音楽がある、ビル・エヴァンスのピアノもそのうちの一つだろう。

以前一度このブログに書いたが、エヴァンスの死後発売されたという『You Must Believe In Spring』というアルバムもそうした音楽が数多く含まれている。今回は、特に1曲目に収録されている ”B Minor Walts (For Ellaine)”が無性に聴きたくなった。

"Ellaine"というエヴァンスの恋人が自殺した(と伝えられる)後に、彼女に捧げるためにつくった曲と言われている。このワルツをエヴァンスはゆっくりとしたテンポで、しかも、正確にリズムを刻むのではなく、自分の気持ちに忠実に揺れ動きながらピアノを弾いている。

「冬」を感じさせる透明なメロディー、和音、転調を繰り返す曲調は、死んでいった"Ellaine"の想い出がフラッシュバックしている様を表現しているかのようである。音を最小限に絞りこみ、まったく無駄な音のない見事なアドリブは、ラジオから流れてくる雑音でしかない音楽とは大きく異なる。

"Ellaine"は決して聴くことができなかった曲ではあるが、エヴァンスは"Ellaine"へのレクイエムであると同時に、自分の魂の動揺をこの曲によって鎮めようとしたのだろうか。カーネギーホールでの演奏よりも、こちらのゆったりとした弾き方がわたしは好ましいように思う。この一曲を聴くだけでも購入する価値のあるCDである。


by kurarc | 2019-01-10 15:53 | music

建築家青木淳『建築文学傑作選』 文学、建築のゆらぎ

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建築家青木淳選による『建築文学傑作選』(講談社文芸文庫)という著書がある。わたしはこの選集で、青木が選定した10篇の作品よりも、まずはこの選集の解説(青木が担当)に心が奪われた。それは、青木の文学に対する「思考」であり、「指向」が明らかにされていたからであり、青木が文学を語りながら、その裏で、建築論にもなっているすばらしい解説であったからである。

10篇の初めに登場する須賀敦子の『ヴェネツイアの悲しみ』を青木は、「この小篇は起承転結に代表されるような静的な構造をもっていない。全体をつくる要素は、それぞれが独立するいくつものエピソードであって、それらエピソードが、その独立性をたもったまま、つながったり、とぎれたり、ほかのエピソードを入れ子状につつんだりしながら進んでいく。・・・人という存在の「たよりなさ」にもっとも見合った幾何学ではないか、・・・」と選定の理由を述べている。わたしであれば、須賀の文章の論理性のなさに呆れてしまうと評したいところであるが、青木はそれこそが彼女の文学のゆらぎであり、そのゆらぎのしなやかな構造に敬服しているのである。

この10篇の中に坂口安吾の作品は含まれていないが、坂口の文学の紹介もしていて、人間にとっての「ふるさと」を論じる坂口の文章を引用している。「・・・我々のふるさとというものは、このようにむごたらしく、救いようのないものでありましょうか。・・・むごたらしいこと、救いがないということ、それだけが唯一の救いなのであります。・・・わたしは・・・人間のふるさとを、ここに見ます。文学はここから始まる-わたしはそう思います。」(坂口安吾『文学のふるさと』)

こうした坂口の思想から、青木は、人を忖度しないこと、それは即物的なものにつながり、美しいものにつながる、ということを理解しようとしている。彼のこうした感性には脱帽した。文学の中に、言葉の中に建築を見て、建築の中に文学を見ることは可能なのだと思わされた。

現代はロラン・バルトの言葉で言うと、「ゆらぎ」の時代かもしれない。確かな構造ではなく、絶えず変化し、断片化し、連続し不連続であり、首尾一貫性をもたず、しかも、構築されていないということでもない。そういう「構築物」をつくることが新しい建築につながるだろう。そのように思わせる青木の解説であった。

by kurarc | 2019-01-08 19:22 | books