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都市問題としてのシュロの繁殖

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都心部でシュロが急激に繁殖しているという。温暖化の影響により、亜熱帯性の植物であるシュロが越冬できるようになり、野生化しているのだそうだ。また、ヒヨドリがシュロの種を運び、繁殖していると推察されている。

しかし、最も大きな原因は、繁殖しかけたシュロが手入れされず、放置され繁殖してしまっていること、つまり、温暖化という理由よりも、人の自然管理の問題であるということのようだ。

シュロは成長は遅いが、ひとたび大きく成長するとそれを取り除くのに手間がかかり、造園業者からも敬遠される樹木ということである。都市部の美しい自然といわれるものは、実は自然ではなく、人の手が入り初めて美しく維持されるということなのである。
(上写真:国立科学博物館付属自然教育園内のシュロ。都市特有の姿をとどめる教材としてシュロの繁殖をわざと展示している場所。
下写真:じろぼうえんごさく 稀少植物である。)

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*目黒駅から徒歩10分程度、白銀台にあるこの自然教育園は稀少な植物の宝庫であり、見応えがあるが、周辺部が都市化され、車の騒音がひどく、落ち着いて植物を観察できる環境にないのが残念である。その点、地元の神代植物公園は周辺環境には恵まれている。)

by kurarc | 2019-03-31 22:38 | nature

イームズハウスのプロブレマティーク


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昨日、ギャラリーエークワッドで『イームズハウスの魅力を語る』と題する建築家岸和郎氏と評論家植田実氏の対談を聴講した。

イームズハウスは日本のインテリア雑誌で度々取り上げられ、建築関係者以外でもファンの多い住宅であると思う。しかし、その成立過程、立地、建築のディテールなどをみていくと、様々な問題群(プロブレマティーク)が浮かび上がってくる。そうした問題群を出発点として、この住宅の意味を捉え直すという主旨の講演+対談であった。

特に、上の問題群は岸氏より提出され、議論された。イームズハウスには第1案(上写真)があったが、彼らはそれを放棄し、第2案をつくり建設した。岸氏によれば、第1案は、敷地が海に近いこともあり、その景観を取り込むような案で、普通の建築家であれば誰もが考えつく案であるが、これを止めたところにイームズの素直でない部分がある、と指摘していた。
(素直でない、とは悪い意味で使っている訳ではない。イームズ夫妻は次元の異なる解を選択した、ということである。)

また、実現されたイームズハウスの出隅に着目すると、こうした収まりはミースのような「建築家としての収まり」とは思えないとし、彼らは建築家という感じがしないことも指摘していた。

また、イームズハウスが色彩を採用した壁面など、スクリーン(マルチスクリーン)を意識したものづくりを行っていることに着目し、極めて映像的な建築、面の連続を意識した建築であることなども指摘していた。

その他、様々な問題群を取り出し、この建築がいかに特殊な建築であるかを述べていた。ジャーナリズムの中では、単に魅力を述べるだけで終わる場合が多いが、我々のような建築家はそうした見方につられてはならない。この建築がまずどのような都市(ここではロスアンゼルス)に建設され、どのような特性をもった敷地であり、なぜ既製部材で組み立てられたのか、近隣にはどのような建築があるのか、敷地内にはどのような植栽があり・・・などあげれば切りがないが、そうした文脈を一つ一つ考えながら、この建築を批判的に読解していかなくてはならない。単に「きれい」、「美しい」ではすまされないのである。

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by kurarc | 2019-03-29 18:56 | architects

空は宇宙の海 松任谷由実 

映画『時をかける少女』を観ていて、最後に同名の松任谷由実の歌が流れる。この歌詞の中に、「・・空は宇宙の海よ・・」という歌詞があるが、今更ながら松任谷由実の歌詞の感性に驚いた。

月のように大気のない衛星は、小さな隕石でも大気の断熱圧縮による加熱(大気摩擦)で蒸発したり、減速したりすることがないため、秒速数十キロという高速で月面に衝突するらしい。月面のクレーターはその傷跡なのである。

海の恵みはわかりやすいが、大気(空)の恵みには気づきにくい。松任谷由実は多分、直感的に「大気に海を感じた」のだと思うが、それは、まったく正しい。名曲と言われ、ずっと歌い継がれる曲には、こうした詩趣に富んだディテールが密かに挿入されているのだと思う。

松任谷由実の『ダンデライオン』には、

「・・傷ついた日々は 彼に出逢うための そうよ 運命が用意してくれた 大切なレッスン・・」

といった歌詞もある。こうした歌詞もなかなか思いつかないし、表現できるものではない。ポジティブな表現であることもよい。

彼女の歌詞だけでなく、現在、ビートルズの歌詞もじっくりと味わってみたいと思っている。最近、ビートルズ研究書が数多く出版されるようになったためであるが、彼らの音楽を無性に聴きたくなってきたからである。

by kurarc | 2019-03-27 17:37 | music

RCR Arquitectes カタルーニャの建築家たち

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TOTOギャラリー間でスペイン人(カタルーニャ人)3人(ラファエル・アランダ、カルマ・ビジャム、ラモン・ヴィラルタ)を中心メンバーとする建築家たちRCR Arquitectesの展覧会を見学してきた。2017年には建築家のノーベル賞と言われるプリツカー賞を受賞した建築家グループである。年代もほぼわたしと同世代の建築家たちである。

彼らの仕事(仕事の事例 上写真:バルセロナ、サンタント二図書館)が興味深いのは当然のことだが、その拠点が、バルセロナから北へ100km程(グーグル・マップでみた限り)離れた自然のなかで、古いヴィラ(ラ・ヴィラと呼ばれる)を改築した建築内で建築研究所を立ち上げ仕事をしているようなのである。

これは東京を中心とすると、群馬の高崎、あるいは栃木の宇都宮、静岡の伊東あたりを拠点に活動している感じであろうか。こうしたいわば地方で活躍する建築家たちでありながら、地域性と国際性という両価的な仕事をこなしていることが高く評価されたようだ。

会場内では彼らの活動のビデオが流されていたが、多分、彼らの話す言葉はカタルーニャ語であったのではないか?通常のスペイン語のような乾いた響きが感じられなかったから、そのように思ったのである。仕事は、外部廻りではモダンな装飾性の強い仕事ではあったが、日本の建築のように、設計に時間がかけられなかったことがわかるような仕事ではない。きっと日本の3倍以上の時間を設計に費やしているはずである。建築自体の印象が重々しく、暗い印象であったことは気になったが、設備を含めた素材の選択、収まりに相当の時間が費やされたのがわかる。

彼らのように今後、地方の素材や技術を再評価し、地方でゆっくりと仕事をこなしていくような建築家のあり方に益々注目が集まっていく時代となるかもしれない。このわたしも、できればそのような工房をもつことができればと思わなくはない。工房をもてないとしても、彼らのように、様々な地域と関わっていけるような仕事をしたいものである。

by kurarc | 2019-03-24 23:04 | architects

日常の中のデザイン25 コップスタンド+コップ

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歯磨きの後、うがいをするためのコップでよいものがないかずっと探していた。洗面所で使用するコップは、使い終わった後、そのままおいておくと、底に水が残っていることもあり、不衛生であるから、なにかコップスタンドとペアになっているようなものはないか、ずっと探していたのである。

国立駅内にあるnonowa国立内のデザインショップで、「+d KOBITO|コビト」(上写真)と名付けられたコップスタンド+コップが使い心地がよさそうなので購入してみることにした。シリコンでできたスタンドとコップは水切れもよく、予想以上に使い心地がよい。

最近、デザイングッズが豊富に出回るようになったが、その一方で、デザインがよいだけで耐久性に劣ったり、すぐに壊れたりするものも多い。これはデザインの流行の弊害といえる。デザインがよいだけでなく、日常の使用に耐えられるものであるのか、よく見極めて購入することが必須である。

「+d KOBITO|コビト」はわたしが購入したデザイングッズの中でも、合格点をあげてもよい商品であると思った。但し、価格は少し高すぎるのではないだろうか。

by kurarc | 2019-03-23 23:57 | design

デカルト 「思うわ、ゆえに、あるわ」

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柄谷行人著『世界史の実験』(岩波新書)に興味深い論考が挿入されていた。柄谷流のユーモアともとれるが、大真面目に彼は発言しているのだと思う。

それは、よく知られた「我思う、ゆえに我あり」というデカルトの『方法序説』の言葉についてである。柄谷によれば、デカルトは『方法序説』の中で、この言葉のみラテン語で書き、その他はフランス語で書かれているのだという。それはなぜなのか?

柄谷は、フランス語で書いたとすると、主語を省略することができず、

Je pense, donc je suis.

となり、主観の存在が強調されてしまう。しかし、ここでデカルトが言いたかったのは、一人称で指示されるようなものではなく、カントが「超越論的主観」と呼んだようなもの、一人称で指示される自己とは異なるものだというのである。

さらに、日本語もそもそも主語と言うべきものは希薄で、明治以後、英文法にもとづき考案されたものであり、西洋の小説の翻訳を通じて変化したものだという。

このような考察の後、デカルトの

Cogito ergo sum.

を関西弁で、

思うわ、ゆえに、あるわ。

に訳し直したいというのである。この場合の・・・わ、の「わ」は柳田国男も指摘していたというが、人称代名詞にあたるものだという。「先に行ってるわ」の「わ」である。わたしもたまにこうした言葉を使うが、これも日本語本来の一人称代名詞の表現であるということらしい。

『世界史の実験』の中で一息つける箇所であった。


by kurarc | 2019-03-20 23:24 | books

小野リサさんのライブ

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ブラジル大使館で、小野リサさんのライブを聴いた。正直に言うと、小野さんのCDはあまり聴いたことがない。小野さんは日本人とは言えない面もあるが、どうも日本人の演奏するボサノヴァ(あるいはブラジル音楽)を聴きたくないという先入観ができてしまっていたからである。

わたしは初めて小野リサさんの歌をライブで聴いたが、驚くほどよい演奏であった。小野さんには失礼だが、あまり期待していなかったのである。しかし、大使館のホール自体が小規模(50人ほどの定員。しかし、定員に収まりきれなかったため、ホール外に椅子を並べた)であったこともあるが、聴きやすく、彼女の繊細なギター音とポルトガル語の響きが美しかった。

彼女はボサノヴァの歌手として日本では知られているが、特に初期にはボサノヴァだけでなく、様々なブラジル音楽を録音していたという。(司会の中原仁さんの解説による)彼女のような音楽は、大ホールで聴くような音楽ではない、ということが今日よく理解できた。ボサノヴァのような音楽は、歌いあげる音楽ではなく、語る音楽であるからである。「語り」に音がのってくるような音楽なのだ。(よって、ブラジルポルトガル語の習得が必須になるということである。)

小野リサの音楽は大ホールで聴くような音楽ではない。また聴く機会があれば、なるべく小さなホールで聴きたいものである。

*写真は演奏終了後のステージ。ギターは小野リサさんのもの。

by kurarc | 2019-03-18 23:05 | Brazil

松任谷正隆の映画音楽 『時をかける少女』

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35年ぶりくらいになるだろうか、大林宣彦監督の映画『時をかける少女』を観た。原田知世さんの声の瑞々しさにも感心したが、松任谷正隆さんの映画音楽が秀逸であることを再認識した。

時を超えることを経験してしまった少女の話だが、それによって悲しい過去や未来を先取りしてしまう。そうした切ない心情が見事に音楽に表現されていた。もちろん、それに加えて尾道という都市の起伏に富んだ空間と地形、佇まいも音楽と見事に調和している。

残念なのは、特殊撮影をした映像である。現在であれば、もっとシャープな演出にできるのだろう。あまりにも稚拙な映像ではあるが、それもこの映画の味の一つであろうか。

映画音楽では「ふれあい」がこの映画の心情を見事に表現している名曲である。この曲は映画ではヴァイオリンで演奏されるが、トランペット曲に変えて、わたしは早速この曲でリップスラーの練習をしている。最近の学園ものの映画は演出をやり過ぎているものが多いが、この映画くらいおとなしさがほしい。

音楽を担当した松任谷正隆さんは他にも映画音楽を担当されたものがあるのだろうか?あれば、その映画を観てみたい気がするが、この映画音楽は多分、彼にとって、特に成功した仕事であるに違いない。

by kurarc | 2019-03-16 22:17 | music

自然言語と人工言語

2020年から小学生たちはプログラムを学ぶことが必修になるという。人間がつくりだしたコンピューターと会話することを現代の小学生たちは強いられることになる。それは、悪いことではもちろんない。このわたしも現在、コンピューターと積極的に会話することを怠っていたことを反省し、今年から新たな気持ちでコンピューターに向かおうとしている。

50代は入院することが度々あり、その都度、どのように暇をつぶすのか考えた。病院に普段読めないような長編小説も持ち込むこと、語学の入門書をもちこむこと、それにprocessingのようなデザインのためのプログラミングの書物を持ち込んだ。processingについては1冊を通読したが、そのプログラム言語をマスターするまでにはいたっていなかった。今年(今年以降)は、このプログラム言語をマスターすることに力を入れようと思っている。

19世紀には、人間と機械は対立するものとして捉えられたが、20世紀を経て21世紀になった現代では、共存していかなければならないものとして捉え直さなければならなくなった。その大きな要因は、言うまでもなくコンピューターの進化である。建築のような世界でも、素材とコンピューターは直接結びつくものとなった。マテリアル・コンピューティングのように、プログラムをする対象が言語だけではなく物質にまで及ぶようになったのである。このような状況では、19世紀のラッダイストのようにコンピューターを破壊してもはじまらない。コンピューターを介したデザインの再定義が必要となった。

わたしは特にプログラミングを機械を媒介した新たな生命体としての言語と捉えたいと思っている。21世紀以降の人間は、前世紀の人間が膨大な文学作品を残したように、プログラム言語を残すことにエネルギーを注ぎはじめている。このような人工言語が誕生したために、われわれが日常的に使用する言語は自然言語と呼ばれるようになった。近い未来にはこの自然言語と人工言語の境界は希薄化し、なんと呼んだらよいかわかないが、仮にX言語と呼ばれるような言語が出現するに違いない。

人間は永遠に何らかの言語を学ぶことを強いられる生き物であるようだ。

*3.11以降、反原発運動が盛んになったが、宇宙への進出を前提とすると、残念ながら、人間は核技術(特に核融合技術)からは逃れられない。月のような衛星では、万が一核爆発があったとしても、地球のような大気がないため、放射性物質は拡散しないらしい。多分、人間はそうした失敗を繰り返しながら、まずは月(または火星)に暮らすことをはじめるのだと思う。しかし、わたしはもし10年後に月居住が可能となったとしても、地球で暮らすことを選択するだろう。

by kurarc | 2019-03-16 00:43 | art

コルタサル『山椒魚』と映画『白い町で』

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コルタサルの小説に『山椒魚』という短編がある。パリの水族館で偶然に出会う山椒魚に魅せられてしまう男の話である。男は山椒魚を注意深く眺めている内に、そのじっと動くことのない堂々とした様態に、時間と空間を無化しようとする意志を読み取る。人間の姿に近い猿は、実は人間と近しい存在などではなく、むしろ男は山椒魚に近しさを感じとる。

このコルタサルの短編は、アラン・タネールの映画『白い町で』のシナリオに登場する。ブルーノ・ガンツ演じるポールは、彼の乗っていた船の船長が彼のことを山椒魚(アホロートル)と呼んだ、といった台詞があり、スイスで彼の帰りを待つ妻がコルタサルの言葉を調べるのである。

ポールが船(海)と陸で生活するという両生類のような男だということを意味するものでもあるのだろうが、このシナリオは明らかにコルタサルの『山椒魚』を示唆するものだろう。ポールは意志が空白になり、いわば何かに乗り移ってしまったかのような人間としてリスボンに暮らすのである。もはや正常な人間には見えない。

こうした人間の意識をシナリオ化したタネールの力量には驚かざるをえない。まったく意味をなさない詩のような台詞を繰り返しながら進行する映画。ガンツもこうした台詞を演じる日の朝に渡されたらしい。一体わたしは何を演じるのか、俳優たちも理解不能であったのではないだろうか。

この映画を改めて観たが、予想以上の名画であるような気がしてきた。また、音楽を担当したジャン=リュック・バルビエ(スイスのサックス、フルート奏者)の曲もよい。そして、最も感心したのは、リスボンという都市の空間性をよく捉えているということである。

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by kurarc | 2019-03-15 18:27 | books