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ウズベキスタン ナヴォイ劇場

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黒沢清監督の最新映画『旅のおわり 世界のはじまり』をユーロスペースで観る。映画の方は多くの言及を避けるが、この映画でウズベキスタンにあるナヴォイ(ナボイ)劇場(上写真)を知ることができたのは収穫であった。

満州で捕虜になった日本人が、大半建設の終わっていた劇場の仕上げ工事を手伝い、完成させた劇場であるという。また、サマルカンドという都市がウズベキスタンにあることを改めて教えられた。

こうした中央アジアの建築について日本人が書いた建築史は見たことがないし、研究者がいるのかどうかもわからない。サマルカンドはイランのイスファハンと肩を並べる建築群に満ちている。建築史家はこうした未開拓の地域にこそ研究対象を求めるべきなのだと思う。

わたしもポルトガル建築史を少しかじったものの、実はそのポルトガル世界の広大さに気づかず、わたしには手に余るものと思い、学習することをあきらめた。ポルトガル世界とは、ポルトガル本国に限らず、ポルトガルが植民地としたアフリカ諸国やブラジルも含まれる。そうした世界の建築、都市を俯瞰して初めてポルトガル建築史を語ることができるのだが、そこまで肝をすえて行う覚悟はもてなかった。

大学で行われる建築史の授業など、実は自分で学習すればよいものばかりなのである。授業でやられるべきことは、こうした中央アジアやバルト三国やアフリカといった日本で書物にもなっていないような領域なのだと思う。

それにしても、黒沢清監督とウズベキスタンの組み合わせは新鮮であった。そして、今までに観たこともない黒沢映画を経験することができた。しかし、今までの黒沢清監督ファンにはもしかしたら受け入れられない映画となっているかもしれない。観てのお楽しみ、ということにしておこう。

*中央アジアの建築史の研究者は検索してみると少ないながら、幾人かいることがわかった。今後の成果に期待したい。

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by kurarc | 2019-06-30 00:49 | asia

子どもという宇宙 童話の世界

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河合隼雄著『子どもの宇宙』(岩波新書)を読んでいる。最近『モモ』という童話を読み始めたこともあり、久しぶりに童話に興味が向き始めた。

童話というと『星の王子さま』がまず思い浮かぶが、これは童話という領域に収まらない名作であることはよく知られている。わたしも佐藤さとる著『だれも知らない小さな国』を中学生時代、読書会で取り上げ、議論したことがある。著者の佐藤氏にも手紙を書き、丁寧な返信をいただいた。

河合氏が「子ども」と「宇宙」という言葉を併記しているように、子どもの世界は大人になるとつい忘れてしまうが、宇宙といえるような広大な世界を子どもたちは感じ、生きている。そのことを河合氏は、「家族」、「秘密」、「動物」、「時空」、「老人」「死」、「異性」というキーワードをもとに、深く掘り下げていく。

興味深いのは、こうした子どもたちの宇宙についての文章を読んでいくと、わたしのようないい歳の大人にとっては、過ぎ去った時間を遡行しているような感覚を味わうことができ、子どもの頃よく理解できなかった出来事を再び経験でき、理解する助けとなる。また、この中で取り上げられる童話も興味深いものばかりで、たとえば、わたしの好きな映画『秘密の花園』の原作を紹介されていて、映画の中だけで完結せず、原作の繊細な描写にも目を向けるべきことに気づかされた。

*この著作にでてきた童話で今後読みたいもの

・E・L・カニグズバーグ 『クローディアの秘密』
・E・L・カニグズバーグ『ジョコンダ夫人の肖像』*レオナルド・ダ・ヴィンチ没後500年である今年、まずはこの童話を読みたい。
・エーリヒ・ケストナー『ふたりのロッテ』
・キャサリン・ストー『マリアンヌの夢』
・フィリパ・ピアス『トムは真夜中の庭で』etc.


by kurarc | 2019-06-27 19:39 | books

沖縄 再び

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沖縄の建築家山田正永さんよりパイナップルが届いた。その御礼の手紙を書いた。

手紙にも書いたが、わたしは大学卒業後、なぜ沖縄に行ったのか、今となってはよくわからないのである。建築家末吉栄三さんの仕事を新建築で知ったことがその大きな動機だったが、普通であれば、東京の人間が、沖縄まで行くだろうか?

さらに、沖縄へ行ったのもつかの間、その3ヶ月後には約1年をかけた海外旅行に出かけることになる。この旅で見学したものを未だに消化しきれていない。それはあまりにも膨大な時間であったからである。この旅でポルトガルに行ったことが、この旅の13年後、ポルトガルに暮らすことにつながった。一つの行動はもう一つの行動をすでに含んでいた。

つまり、一つの行動がすべてを含んでいたのかもしれないのである。それは大学卒業後の2年間、この沖縄での経験と、約1年にわたる海外旅行であったといまでは思う。ここで得たもの、また、学習し、学習し損なったものがわたしの原点である。わたしは未だにその空白を埋めることができていない。沖縄での経験の中にすべてがある、といってよいのかもしれない。今回の旅でもそのことを強く感じられた。建築だけでなく、都市や都市をとりまく自然へ耳を傾けること、東京では忘れがちであるが、沖縄へ行くといつもそのことを思い出す。

このような大切な場所があることはわたしにとっての宝である。沖縄を忘れないようにしなければ。

*写真:中村家シーサー横顔

by kurarc | 2019-06-25 21:18 | saudade-memoria

大林宣彦監督 映画『ふたり』

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大林宣彦監督の映画を最近続けて観ている。今日は新・尾道三部作の第1作目『ふたり』を目黒シネマで初めて観る。これは、予想以上に名作、力作であった。

この映画のストーリーも予告も、原作も知らずに観たが、それでもまったく問題はなかった。石田ひかりさんが主演第1作ということだが、その台詞の舌足らずな話し方がこの映画の主人公のキャラクターを的確に表現していて、感心した。

この映画も尾道のランドスケープは映画のストーリーと見事に調和していた。それは、日本で言えば長崎のような坂の街のランドスケープだが、そのランドスケープが映画の中に近景だけではない、中景、遠景をかたちづくり、映画に奥行きを与えている。ストーリーも想定外に展開し、最後まで飽きることがない。

偶然とは思うが、この映画が公開された年、ポーランドでは映画『ふたりのベロニカ』が公開されている。『ふたり』は死んだ姉と妹という「ふたり」であり、『ふたりのベロニカ』は、クラクフとパリの他人であるが、まったく容貌が同じふたりの女性を主人公に設定している。

両者とも一方の「死」が生き残るもう一人に大きな意味を与えることも一致しているが、その描き方はまったく異なる。死者との対話、対立でもある二つの映画は、東西世界という「ふたつの世界」がすぐそこにあった時代とどこかで通底しているようで興味深い。

目黒シネマは初めて利用したが、昭和の面影を残す東京でも数少ない映画館のようで、天井高の高い落ち着いた映画館であった。この映画を観るにふさわしい場所であった。

by kurarc | 2019-06-23 22:34 | cinema

モモ 耳を澄ます少女

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ミヒャエル・エンデ著の『モモ』を読み始めた。1980年前後だったろうか、エンデの童話が日本で話題になったが、わたしは読んでいなかった。モモが円形闘技場に住む少女だったことを思い出して、急に読みたくなった。

モモは耳を澄ます少女、人の話、自然に耳を澄ますことが得意な少女である。エンデはこのなにげないモモの行為をまずこの童話の最初に取り上げ、星の世界にまで届くように耳を澄ますことの重要性を訴えている。

偶然にも、わたしの現在もっとも好きな女性歌手アナ・マリア・ヨペックの最新アルバムの4曲目「PATRZ I SLUCHAJ」は、「見て、耳を澄ませて」の意。彼女も砂の一粒、カラスの羽音、光、雨の雫、鹿の優しい目、吹き荒れる強い風・・・etc.について、「見て、耳を澄ませて」と歌っている。

エンデが言うように、この当たり前の行為をどれだけの人ができているのだろう。もちろん、このわたしも自信はない。今、人が見ているのはスマホばかりではないか。先日、幼なじみと蛍狩りに出かけたが、久しぶりに何かを見ることの楽しさを味わうことができた。それは、子供の頃よく見ていた昆虫の生きている姿である。

by kurarc | 2019-06-20 18:43 | books

ルッカ 円形闘技場遺構の転用

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ルッカを訪れたのは、1984年10月21日のことである。フィレンツェから日帰りでこの都市を見学した。ルッカの城壁は美しく、完全な形を保っていた。城壁上部は車が走れるほどの街路が巡らされ、ちょうど日曜日であったことから、市民たちはジョギングを楽しんでいたことが思い出される。

ルッカはあの天才建築家ブルネレッスキが、水攻めをしようとして逆に水攻めにあってしまった都市として知られている。フィレンツェ軍の一員として戦場に派遣されたブルネレッスキは、かつてセルキオ川の洪水に悩まされたルッカの都市を逆手にとって、この川の流れを変え、ルッカの廻りに大きな湖をつくり孤立させようとしたが、その計画は無残にも失敗に終わる。

このルッカの街には不思議な建造物がある。古代ローマ期につくられた円形闘技場が転用され住居になり、現在でも使用され続けているのである。これについては、黒田泰介氏の『ルッカ 1938年 古代ローマ円形闘技場遺構の再生』に詳しい。

イタリアではこうした円形闘技場が、要塞化、住居化、宗教施設化、公共施設化されたものなど、数多くの転用事例に出会うことができる。不思議なのは、円形闘技場はかつて刑場であったこともあり、不吉な場であったため、こうした建造物に住み込むようになるには、そうした穢れをどのように精神的に整理していったのか気になる。また、居住者はどのような住民、民族であったのかについても。

この書物で知ったのだが、ローマは円形闘技場としてはコロッセオが有名だが、ローマ郊外にもう一つ小規模な円形闘技場(カストレンセ円形闘技場)があるということである。この闘技場の内部は修道院の菜園となっていて、収穫された野菜や果物がこの建造物内の店舗で販売されているとのことである。

黒田氏の著書は、建築物の転用という普遍的な行為を考えながら、イタリアの建築類型学を学ぶことができる優れた書物である。

*この書物を初めて読んだのは13年前のこと。このブログで一度取り上げた。現在、13年前以上に理解力が増し、この書物の重要性を13年前以上に認識するようになった。

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by kurarc | 2019-06-18 23:23 | books

モネ 絵画の復元とAI技術

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クロード・モネの絵画「
睡蓮、柳の反映」(上)がAIを利用して推定復元される過程のドキュメンタリー番組が放映された。

興味深かったのは、当初AIで復元された作品は、AIで学習された絵画が、モネの初期の作品が多かったため、色彩が明るく、モネの晩年の作風から逸脱していたということである。

それらを人間の眼で判断し、復元される絵画と同じ年代の作品をAIで再度学習させた後にアウトプットされた絵画は、色彩も落ち着き、晩年の作風に近似していた。

この結果はAIに限らず、人間の学習を考える上で参考になる。人間がインプットする情報の差異によりアウトプットされる作品(仕事)は異なる、という当然の結論を思わずにはいられない。

また、筆使い、タッチなど繊細な部分は現段階では人間の手作業が必要である、ということも興味深い。AIで学習することができる限界も存在し続けるのではないか、と感じられた。

AI技術は近い将来、建築の復元、さらに建築デザインに補助的に活用されること(すでに活用されているが)は確実だろう。建築家たちは将来AI技術を身につけることを強いられるだろうし、またはAI技術者に転換しなければならなくなるかもしれない。

*この番組で試みられたAI学習であるが、AIが学習できるのは作品という結果から推測するというテクニックの学習であり、ここではモネがどのように考えて絵画を描いたのかということまでは学習できないということである。つまり、AIはモネの意識より、むしろ無意識のようなものを抽出したのではないか、と考えられる。

by kurarc | 2019-06-17 23:03 | art

ジョン・ルーリーの絵画 (2019)

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ジョン・ルーリー、わたしにとっては映画『パリ、テキサス』の中で突如登場する怪物のような男性、それがジョン・ルーリーとの出会いであった。

サックス奏者でもあった彼が、ライム病という難病におかされ、映画や音楽をあきらめ、絵画を描いていることを知ったのは10年ほど前のことである。2010年にワタリウム美術館で個展があったようだが、そのときには観ることができなかった。現在、再度ワタリウム美術館で個展が開催されているため、見学してきた。

古いものから最近描かれたものまで数多くの絵画を観ることができた。色彩が最近のものは明るく変化しているように感じた。また、細胞や遺伝子をモチーフとした?ような絵画が目立った。彼は現在も抗がん剤を続けているようで、副作用に苦しめられているようだが、その苦しみを解放していくような絵画の色彩感覚とその絵画に添えられた軽妙なポエムのような画題は相変わらずであった。

彼の絵画は、よく素人がうまく描こうとして描く絵画とは異なり、夢の中の世界のようであり、その色彩のバランスが絶妙である。作品集をもっているが、やはり実物を観るに限る。

*上画題「お尻みたいな花を咲かせた木、また満開」

by kurarc | 2019-06-16 21:21 | art

コンバージョン 形態と機能の切断 都市の建築

建築の保存・活用やそれに伴うコンバージョン(機能転換)などをここ10年以上に渡り注視してきた。たとえば、コンバージョンは現在では常識的な建築活用法になった。

東京中央郵便局はその機能を一部残しながら、百貨店のような機能、スペースに転換された。また、篠原一男設計の『直方体の森』と名付けられた住宅は、現在、大半を美術館として使用されている。こうした事例はあげれば切りがないほどである。当初、建築家たちはクライアントのために一生懸命に特殊解としての建築を設計し、つくりあげる。しかし、その建築も時間の経過とともに、建築家がまったく予想もしていなかった機能に転換、変換されてしまう。

このような現象を最近、もう少し精緻に考えてみようと思っている。こうした形態と機能の切断について、設計当初、どのように想定していればよいのだろうかとか、コンバージョンを考えたときに、はたして建築の形態(デザイン)とはどのような意味をもつのか、機能転換を前提とした建築デザインとはetc.・・・などについてである。

建築が長生きをするとき、建築はまったく別人格になってしまうことがある、ということなのである。建築家はそんなことを考えても仕方がない、という意見もあるだろう。また、それは建築家の知ったことではない、と言う方もいるかもしれない。建築家たちはたとえば70歳、あるいは75歳以上生き、活動する場合、自分の過去の仕事が、予想だにしなかった機能に転換される場に立ち会うことが予想される。そうしたとき、建築家たちはどのように感じるのだろう。

建築の機能転換は、建築が新たな価値を付加され、生まれ変わることを望まれたのだから、そのような建築はある意味で優れた建築だといえる。わたしはそうした建築をアルド・ロッシの著作の名を借りて、ひとまず「都市の建築」と呼んでおきたいと思う。「都市の建築」は、都市の一員として再認識され、都市の中にしっかりと根付いていく建築であり、その後、都市の中に埋もれて、その存在をことさら主張することもなく、生き延びていく建築である。

by kurarc | 2019-06-15 23:38 | archi-works

トランペット 水道蛇口奏法

月に2回ほどジャズトランペットのレッスンを受けている。ジャズ理論は難しいが、現在教えてくれているU先生は非常に教え方がうまく、わかりやすい。難解なジャズ理論が大分理解できるようになった。20歳の頃にも挑戦したことがあったが、その頃、渡辺貞夫著の『JAZZ STUDY』程度の本しかない状態であったから、素人には理解しずらかった。それに比べ、最近では英語の参考書のように教本を選択するのに苦労するほどである。

いくら理論を理解しても、トランペットの音がよくならなければどうしようもない。U先生は理論だけでなく、奏法についても丁寧に教えてくれる。わたしはタンギングをするときにお腹を知らない間によく動かしていた。タンギングするたびにお腹に力を入れるような奏法を行っていた。

U先生からは、そうではなく、お腹をなるべく動かすのではなく、はじめに息を入れ、くちびるを閉じ、水道から水が絶え間なく流れるように息を吐き出すようにすることを薦められた。タンギングはその息の流れをただ止めるだけ。つまり、息は絶えずくちびるから流れているような意識を持ち続けつつ、くちびるはその流れを止めたり、開いたりする機能だけ。

そのようにしているうちに、トランペットの中に軽やかな空気が流れるように感じられると、それに伴って、音もクリアになってくる。トランペットの中を風が通り抜けるように息が通るようになり、くちびるへの負担も減少し、軽々と吹くことができるようになる。

こうした状態を毎回キープできるようにすることが、これからの課題である。こうした奏法をひとまず「水道蛇口奏法」と名付けておこう。以前、トランペットの「ため息奏法」について書いたが、ため息奏法は力まずに息を入れる訓練にはよいが、クリアな音を出すにはこの「水道蛇口奏法」をマスターしなければならない。



by kurarc | 2019-06-13 21:57 | trumpet