アロシュ・デゥ・ポルボ(タコの雑炊、タコのリゾット)

久しぶりにタコの唐揚げを食べる。タコやイカは大好物だが、タコというと忘れられないのが、ポルトガル滞在時によく食べたアロシュ・デゥ・ポルボ(タコの雑炊、タコのリゾット)である。日本でいうタコの雑炊であるが、赤ワインとトマトで煮込むタコのリゾットといったほうがわかりやすいかもしれない。

ポルトガル滞在時、わたしはこの料理に魅せられて、各地方へ行った時に、この料理がメニューの中にあれば必ず注文した。その中でも、ポルトガル北部、スペイン、ガリシア地方に近いヴィアナ・ドゥ・キャステロという街で食べたものが最も美味しかった。今でもその裏路にあった小さなレストランの場所はおよそ記憶している。

関西ではタコは明石と決まっているが、明石のタコは、瀬戸内海の潮流とカニを食べているため、身が引き締まり、美味しいものとなるらしい。旬は夏場とのことだが、その季節になったら、わたしもこのアロシュ・デゥ・ポルボ(タコの雑炊)を明石のタコを使い挑戦したい。

気をつけなければならないのは、日本で出版されているポルトガル料理本である。いい加減なものが多く、わたしが持っている本でも、この料理にワインもトマトも使っていないという有様である。(これでは、いわゆる日本のタコご飯と変わらない)現地ではこうした調理方法もあるのかもしれないが、タコが最も活きる調理方法を掲載すべきである。日本での情報には気をつけなければならない。

# by kurarc | 2017-04-10 18:41 | gastronomy

「 波 」へ

興味は断片から始まる。石ころや植物、好きな音楽、可愛らしい鳥、鳥の歌、砂、フランス文化、映画etc.などといった類のたわいもない事物が忘れられないものとなる。そして、その機が熟してくる頃、思いも掛けない主題が発見されたりするものである。わたしにとって現在、大きな主題となるものの一つは、「波」である。

それは、自然現象の中に存在するすべての「波」、芸術の中に現れる「波」、特に音や光のような不可視な「波」について、興味を持っていることに気がついたのである。

わたしの専門とする建築の中にもしばしば「波」は登場する。バロックの建築の中に、それはうねる曲面として現れたが、次第にそれは、平面(平坦な面)の中にリズムをつくるというエレガントな回答を発見することになる。その発見者はポルトガル人であった。ボロミーニがやったようなうねる曲面によってバロックを表現するのではない、面のリズム(装飾的手法)による、いわば、隠喩としての曲面が現れた。

その後、その手法は、あのル・コルビュジェのラ・トゥレット修道院やハーバード大学の視覚芸術センターのガラス窓の中に現れることになる。コルビュジェの作品集7巻目に登場するその「波動窓」は、「Pan du verre ondulatoire 」というフランス語で表現された。日本語版では、このフランス語を単に「波動式」と記述しただけで、「波動式ガラスによる壁面」という直訳すら掲載されなかったのは丁寧さに欠けた翻訳と言わざるを得ない。(波動を応用した壁面(窓)は、クセナキスの功績であることを付け加えておかなければならない)

そして、この「波」を記述する言語として数学が登場する。フーリエ級数、フーリエ変換、フーリエ展開などといった数学がこの「波」の理解を助けてくれることになる。18世紀から19世紀に生きたフランス人フーリエ(ジャン・バティスト・ジョゼフ・フーリエ)の業績を理解しようという意識がわたしの中でようやく熟してきた。

そして、これらをまた別の視点でくくってくれるのは「フランス」である。「フランス」という文化への深い理解がわたしにとって最もアクチュアルな主題に浮上してきたということである。



# by kurarc | 2017-04-08 19:30 | design

『コンビニコーヒーは、なぜ高級ホテルより美味いのか』通読

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少し前、コーヒーに少し飽きがきたことをこのブログで書いたが、タイトルの川島良彰氏の本を通読し、やはり、それはわたしがまずいコーヒーを飲んでいたからであったことに気がついた。

サードウェーブコーヒーといった言い方がなされ、カフェ文化が新たな段階に入ったようなことがテレビやラジオで流れてくるが、川島氏によれば、それは、アメリカ西海岸の尖った一派が日本の多様なコーヒー文化に触発された結果なのだという。だから、「ブルーボトルコーヒー」が日本に進出して、大騒ぎになるようなことは、アメリカ人自身、想像していなかったことなのだという。日本では、それ以前に優れた抽出方法で美味しいコーヒーを入れていたのだから。

この本は、美味しいコーヒーの淹れ方のようなマニュアル本ではない。多くは、コーヒーの世界について著されている。その点について、ここで詳しく述べても意味がないので、川島氏がコーヒーを美味しく淹れる方法をいくつか抜粋しておこうと思う。

1)コーヒー豆は買ってきたら、トレーなどに移して、欠陥豆を取り除く。これで、随分と美味しくなるとのこと。

2)真空パックされた豆は買わないこと。焙煎後、豆は炭酸ガスを放出するが、その炭酸ガスとともに香りを逃さないようにすることが重要で、その炭酸ガスを真空パックは取り除いてしまっているということ。

3)コーヒー抽出に適正なお湯の温度は85〜90度。

4)コーヒー豆は「果実」である、ということを忘れずに。焙煎よりも、まずは豆そのものの品質が第一。

まずは、川島氏がプロデュースするコーヒー店に足を運んで、美味しいコーヒーとはどのようなものか把握することか・・・

# by kurarc | 2017-04-06 22:09 | gastronomy

井上ひさし、ボローニャ、ポルティコ(柱廊)



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先日、イタリア文化会館で催されているイタリアブックフェアに立ち寄った。日本語で紹介されたイタリアに関する書籍が所狭しと展示してあったのだが、その中に、井上ひさしさんの随筆『ボローニャ紀行』(文春文庫)が置いてあった。井上さんが都市論のような随筆を書いている、という驚きもあり、早速、アマゾンで古書として購入した。

まだ、読み始めたばかりだが、19の随筆の3番目に、「柱廊(ポルティコ)の秘密」と題する随筆があった。ボローニャはもちろん訪れたことがある。そして、私にとっては忘れられない思い出がある。街外れにあったおよそ一泊300円程度の公立のドミトリーに宿泊したからである。ここは、いわば無職のような境遇の労働者(悪く言えば浮浪者)が宿泊するようなドミトリーであった。わたしは、宿泊代をうかせるために、海外旅行ではこうした宿をよく利用する。しかし、その反面、怖い思いもする。このドミトリーではカメラを盗まれそうになった。その盗もうとしたイタリア人(フランチェスコという名)は、前日までわたしを色々な場所に観光案内してくれたのであるが、ドミトリーを離れる最後の日になって犯行に及んだのである。しかし、彼はそのカメラを自分が盗んだようには見せかけず、わたしに返してくれたのであった。

閑話休題、ボローニャのポルティコ(上写真、wikipediaより)は、都市というものを考えるときに、必ず頭の中に浮かんでくる装置である。ボローニャ人は、このポルティコのおかげで、雨の日も傘が必要ないと自慢する。そのポルティコの起源について、井上さんは、この随筆でふれていた。大学の街として知られるボローニャに学生が集まり、その学生数がバカにならなくなった頃、2階上部に増築をし、学生のための部屋をつくった。その部屋は木の柱で支えるようにつくられ、のちに、石造としてつくられるようになった。これが、ポルティコの起源ということらしい。

井上さんがこうした随筆を書かれているとは知らなかった。ボローニャについては、かなりの気の入れようで、その熱気が伝わってくる名随筆である。そして、井上さんらしいユーモアも忘れてはいない。



# by kurarc | 2017-04-04 21:32 | books(本(文庫・新書)・メディア)

映画『霧の中の風景』再見

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10年ぶりくらいにアンゲロプロス監督の映画『霧の中の風景』を観る。映画音楽や象徴的なシーンの印象だけは強く残っていたが、各々のシーンなど細部についてはほとんど忘れかけていた。映画は忘れるからまた観たくなるのである。

結論から言うと、こんなによい映画だったのか、と改めて感じた。1988年の映画とは思えず、古めかしい感じは全くない、普遍的な映画である。アンゲロプロスは自分の子供のためのおとぎ話をつくりたかった、ということだが、もちろん、生やさしいおとぎ話ではない。

手短に言えば、姉弟が不在の父をドイツに探しにいく、というロードムービーである。父はドイツにいないのだが、その父がドイツにいるということを信じて、幼い姉弟が旅をする。その過程で、姉は少女から恋を経験して大人に近づいていく。特に、わたしは今回、この姉の心の動きに注目して映画を観た。

字幕を担当した池澤夏樹さんは、この映画は物語ではなく、詩で構成されていることを指摘している。その点、わたしも同意するが、今回わたしは、アンゲロプロスの映画がシュルレアリスムの影響を大きく受けていることを感じた(誰もが感じることだろう)。彼の映画とシュルレアリスムとの接点を指摘している批評家はいるのだろうか?わたしは、そうした批評に今まで出会ったことはない。

この映画を観ていて、映画『エル・スール』(1983年)が頭をよぎった。共に子供たちの演技の光る映画である。子供たちが重いものを背負っていることも共通している。もしかしたら、アンゲロプロスは映画『エル・スール』の影響を受けていたのかもしれない。



# by kurarc | 2017-04-02 23:36 | cinema