今年の総括と来年の目標

今年もあと大晦日1日を残すのみとなった。簡単に今年を総括しておきたいと思う。

今年の第1の成果は、まず長年の宿題となっていたポルトガル建築史への補足論考を学会(大会)に提出したことであろう。あいにく、膝を骨折し、大会会場である京都大学に行けなかったのは残念だったが、22年前、『ポルトガルを知るための50章』(現在第2版で55章となっている)で言及したジョージ・クブラーに関する論考を補足できたことはわたしにとって大きかった。ポルトガル世界から離れていたが、クブラー著の『時のかたち』(SD選書270)の翻訳が刊行されたことが刺激となった。この著書の翻訳者の方々には感謝したい。

次に、家具の国際コンペに満足のいく椅子の案を提出できたことである。テーブルについては、15年前に天童木工のコンペで銀賞をいただいたが、それ以来、次は椅子のオリジナルなデザインを完成させたいと思い、試行錯誤を続けてきた。何回か国際コンペに提出したが、よい結果は得られなかった。今までの案はコンセプトが弱かった。単純に形のデザインに終始してしまった感があった。もちろん、歴史的な椅子を踏まえてデザインはしていたが、単にそれだけだった。今回は、時代背景を踏まえたコンセプトとしたこと、モダンデザインを継承するデザインを目指したこと、さらに、天童木工のテーブルとの接点もあるデザイン(接点だけでなく、その切断も含む)とした。この15年間の試行錯誤を整理し、やっとまとめることができた。コンペの第1次審査の結果は来年2月中旬の予定である。よい結果が出ることを期待したいが・・・

ポルトガルに関する論考を書いたこともあるが、多分、今年最も頻繁に見た(聴いた)You tubeはポルトガルの音楽ユニット、マドレデウスの「Capricho-Sentimental」というビデオである。新たな女性ボーカルであるベアトリス・ヌーヌの美しい声に惹かれたことが大きかったが、リスボンのサンタ・アポローニア駅を背景につくられたビデオであることはわたしにとっては特別なものとなった。1984年12月にこの駅に着き、ヒューマンなスケールの市電に乗って市内へ行ったことが忘れられない出来事だったからである。すでに、この駅からの市電が廃線になってしまったことは惜しまれるが、このリスボンの市電の経験により、この街がまず好きになった。1984年にはリスボン中に張り巡らされた市電の路線がまだ活きていて、19世紀の街、おとぎの街といってよい雰囲気であった。1995年に再度リスボンを訪ねたときにはすでに多くの路線が廃線になっていたので、その廃線になる前のリスボンを旅したことがより貴重な経験になったのである。わたしはやはり、この街が好きなのだと改めて感じられた1年であった。

次に来年の目標だが、来年は語学にもう少し力を入れたいと思っている。英語以外では、修士論文を書くときにはじめたドイツ語からポーランド語、その次にポルトガル語、スペイン語と来て、フランス語に移ったが、ある程度ものになったのはポルトガル語くらいで、その他はいまだに初級の範囲を出ていない。わたしにとってやりやすいルーマニア語を除くロマンス諸語(スペイン、ポルトガル、フランス、イタリア語)をすべて中級クラスに進めたい。イタリア語は手をつけていなかったので、英語を含め学び直したいと思っている。

あとは、好きな読書をさらに進めていきたい。文学全般から数学(科学全般)、哲学、文化人類学(民俗学)、芸術学、それに専門の建築、および建築史、建築論などやデザイン全般の知識を充実させること、さらに、Processingのプログラムのマスター、趣味のトランペットの技術向上とそれに伴った音楽知識、歴史、理論の習得、今年は怪我でできなかった旅もしたい。やりたいことは山ほどある。

楽しく過ごすこと、それができれば、以上のことくらいはできるはずである。来年は今年以上によい年にしたい。

# by kurarc | 2023-12-30 23:20

武蔵野学へ


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ずっと積読状態であった赤坂憲雄著『武蔵野をよむ』(岩波新書)を読了。大雑把にいえば、国木田独歩を底流とした武蔵野論であり武蔵野学を提唱した著書といった内容である。この著書を水を飲むように一気に読んだのだが、それは初めて知ったが、赤坂もわたしとと同じような武蔵野育ちであったからであると思う。文章の端々に武蔵野の残像や幼少期の雑木林の体験が描かれているが、それはわたしと同様、すでに残骸(それはもはや面影ともいえない)となってしまった武蔵野の様相に対する郷愁のようなものである。

この著書の中で特に興味深かったのは、第2章の「切断と継承 / 歌枕と名所のあいだ」である。例えば、西行は武蔵野を「いにしえの草のゆかり」とともに詠んだ。つまり、西行の時代、武蔵野は「草」に覆われた世界、「草」(具体的には、紫、萩、薄、萱、女郎花など)こそが武蔵野の歌枕であった。その後、武蔵野は雑木林の茂る人工林(二次林)に変化したが、その変化を文学の中で発見したのが独歩であったということである。それは、独歩が西の人であり、照葉樹林帯の世界を知っていたこと、さらに、武蔵野を発見する以前、北海道の原生林を体験していたこと、加えて、ツルゲーネフらのロシア文学の影響からであった。こうした関係の中で、人工林としての雑木林(独歩の言葉では落葉林)の世界を発見できたということである。

この発見を、柄谷行人は『日本近代文学の起源』の中で、「風景が名所から切断されている・・・」と指摘し、独歩が歌枕的な世界から歴史を捨像したことが武蔵野を発見した、と捉えた。しかし、赤坂は、そうは言えない、と反論している。赤坂は、独歩が紅葉会(柱園派の松浦辰男を中心とする和歌の会)出席していることを踏まえ、近世的なものは独歩と連続しており、歌枕的伝統を知っていたがゆえに草から雑木林への転換を戦略的に選びえたと捉え、柄谷の性急な断定を退けている。

武蔵野に関わる作家は独歩以外にも数多く存在したはずであるが、本書では、そうした他の作家への広がりを極力避けて、独歩を主題とし、その変奏曲を奏でる、といった内容に固守している。武蔵野学を提唱したいという赤坂の第一歩として本書は執筆されたためだろう、まずは明確に中心を定めた論考としたのではないだろうか。

わたしにとっては、本書以降、どのように武蔵野学を発展させていくのか、今後の論考が楽しみである。

# by kurarc | 2023-12-27 20:50 | 武蔵野-Musashino

Alison Balsomの『Quiet City』


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イギリスのトランペット奏者、Alison Balsomの『Quiet City』(上写真 コープランド作曲)を聴いた。この曲は、彼女の最新のアルバムのタイトルとなっている。『Quiet City』という曲が気に入り、様々なトランペット奏者の演奏をYou tubeで比較しながら聴いているが、この曲はトランペットの伸びやかな音が必要であり、トランペットの最も美しい音域の曲であるだけに、その奏者の真の実力が現れる曲と言える。

Alison Balsomの演奏は、もちろん悪いわけではないが、トランペットの音の輝かしさが不足し、タンギングやリップスラーの曖昧さが目立つ。それに比べると、バーンスタインの指揮によるニューヨークフィルハーモニーでのPhilip Smithの演奏(下写真)は完璧であり、神がかった演奏といってよい。トランペットの音の輝かしさ、タンギング、リップスラーの的確さ、音量のバランスと音程、そして、音質がAlison Balsomの音質とはまったく異なる。低音の太い音と高音のバランスが絶妙なのである。

こうして同じ曲を比較すると、その奏者の力量は明確になる。奏者による曲の相性の良し悪しもあるかもしれないが、素人が聴いたとしてもPhilip Smithの演奏に軍配が上がるはずである。



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# by kurarc | 2023-12-24 20:27 | trumpet(トランペット)

「モネ - 連作の情景」展 図録



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先日、ロス・キング著のモネに関する著書をこのブログで紹介したが、わたしは現在、『モネ-連作の情景』展が開催されていることをまったく知らずにロス・キングの著書を取り上げていた。友人にロス・キングの著書について紹介する機会があり、その時に、ちょうどこのモネ展が開催されている、ということを教えられた。偶然の巡り合わせだったのである。

こうした展覧会は混雑が予想されるので、まずは図録を取り寄せ、予習をすることにした。定価税抜3,000円のものだが、図録の出来は非常に素晴らしく、3,000円を支払う価値は十分にあると感じられた。『モネ-連作』(ベンノ・テンペル 文)、『旅する画家モネ』(マイケル・クラーク 文)、『「連作」の連鎖-モネの魅力』(島田紀夫 文)、『<昼食>から読み解く印象派以前のモネ』(小川知子 文)といった小論(図録末にそれぞれの英文も掲載)以外に、それぞれの時代のモネに関する解説や作品解説、関連地図、年譜等が含まれ、絵画だけでなくモネに関する基礎知識を得るための工夫が行き届いている。

展覧会を観る前に、この図録で予習し、じっくりとモネの絵画を味わうことで、モネの絵画のより深い理解がすすむのではないか。それにしても、来年1月28日まで上野の森美術館で開催されているこの展覧会にいつ行くべきかが最大の課題である。

# by kurarc | 2023-12-20 22:28 | art(藝術)

階段の蹴上(けあげ)と踏面(ふみづら)


今年の7月、右膝のお皿(膝蓋骨)を骨折し、手術を行なった。すでに5ヶ月以上が経過したが、いまだに骨折前の状態に戻っていない。普通に歩くことはできるが、現在、困っているのは階段の昇り降りである。右膝が100度程度しかいまだに曲がらないため、階段の昇り降りのリズムがギクシャクしてしまうのである。

階段は、蹴上(階段1段の高さ)と踏面(階段1段の水平部分の奥行き)の関係により、昇り降りのとき、身体にかかる負荷が変化する。膝を骨折したこともあるが、その負荷が特に気になるようになった。通常、我々建築を設計するものは蹴上と踏面の寸法の和を45cmとするという一般的な法則のようなものがある。蹴上は例えば住宅の場合、建築基準法で23cm以下と決まっている。但し、普通は21cm以下に抑える。そうすると、踏面は24cm程度とする場合が多い。

しかし、膝を怪我してから、このような法則は当てにならないことに気がついた。高齢者のように膝が弱ってくると、このような比率では階段の昇り降りのとき、膝にかかる負担はかなり大きくなるだろう。特に重要なのは、蹴上の高さを最小限に抑えることだと思うようになった。できれば、階段の傾斜角度はゆるいに越したことはないのである。階段のスペースを切り詰めて設計しなければならない場合が多いことから、設計者は蹴上を21cmくらいに設定することを気にしなくなってしまう。もちろん、どうしても不可能な場合はやむを得ないが、わたしが今思っている蹴上の高さの感覚は17〜18cm程度に抑える方がよいということである。この場合、踏面は26〜27cm程度になるだろうか。

先日、初めて、味の素スタジアムを訪れたが、スタジアム入口手前の大通りを渡る歩道橋の階段は、階段の傾斜を極端に緩くしていた。これは多分、多人数の観客が集中する状況を踏まえて、特に下りでの安全性と事故の予防のために配慮したものだと思われる。こうした階段が気になったのも怪我をしたからだが、その重要性に改めて気づかされたのである。階段はできる限り、余裕のある傾斜に抑えることが建築にゆとりと安全性、身体への負荷の減少をもたらすものであることを自覚しておいた方がよさそうである。

上に書いた適切と思われる蹴上、踏面の寸法は、実は建築基準法で定める小学校や中学校の階段の基準とほぼ等しい。もしかしたら、その当時の寸法の記憶が脚に定着しているのかもしれない。あるいは、階段は子供を基準に考えるのがよいのかもしれない。

# by kurarc | 2023-12-18 23:52 | slope-stair(坂・階段)